福音をわずか三十五語で言い表すとしたら、どのような説明になるでしょうか。イエスはそれを、二つの短いたとえ話のうちに語られました。畑に隠された宝を偶然見つけた男と、高価な真珠を探し求めた商人の話です。二人とも、あまりに価値のあるものを見出したがゆえに、持っている物すべてを喜んで手放しました
「対立の回避」「福音による勇気」、そして日本の教会で語られない奇跡について。
日本の牧師なら誰もが、こんな場面を経験しているでしょう。
礼拝後、ある信徒が普段より少し堅い態度で近づき、静かにこう言います。「先生、今日が最後の日曜です。」牧師は驚いて言葉を失います。「どうして? 何かあったのですか?」そして、ゆっくりと重い塊のように降りかかる答えが返ってきます。「実は、数年前にある出来事があって、それがずっと心に重くのしかかっていたんです……」
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」1霊的虐待(スピリチュアル・アビューズ)が深刻な問題として認識されている今日、「指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」という命令には、ある種の危うさが伴います。誤解を恐れて、この聖句を取り上げるのをためらってしまいがちです。けれども、これは盲目的な服従への呼びかけではなく、指導者と会衆の双方に益をもたらす協力関係への招きなのです。
日本には、誰もが尊敬しつつも、誰もその正体を本当に知らない、ある種の牧師がいます。
彼は忠実に説教し、病人を訪ね、苦しむ人々を助言する。「先生」と呼ばれ、その肩書きの重みが、その指導のあり方すべてを形作ってしまいます 。そしておそらく最も危険なのは、彼自身の内面について、どれほど正直でいられるかが制限されてしまう点です。これは批判ではありません。むしろ文化が仕掛けた罠についての観察であり、その罠を解くことができるのは唯一福音なのです。
日本には、多くの人が認識しているものの、具体的に言及することはめったにない文化的な現象が存在します。ある男性は、長年にわたりサラリーマンとして働き、日本特有の謙虚さをもって出世の階段を登っていきます。同僚よりも深く頭を下げ、言葉遣いに気を配り、目上の人には敬意を表し、ためらうことなく謝罪するのです。あらゆる社会的尺度から見ても、彼は好感が持て、親しみやすい人物です。しかし昇進すると、何かが変化します。かつては思いやりがあることで知られていたその男性は、扱いにくく、支配的で、距離感のある人物へと変わります。チームは男性の気まぐれを恐れます。部下たちは彼と協力するのではなく、彼を避けて仕事をするようになります。「パワハラ」(パワーハラスメント)という言葉が、日本の日常語として定着したのには理由があります。それは、日本の職場で痛ましいほど普遍的に見られるパターンを的確に表現しているからです。
前回の記事「良い問題と神にかなった解決」に続き、今回の第2回では、執事と長老の協力的な役割について考察します。それぞれに持っている独自の責任がどのように連携し、教会共同体を支え、育んでいくのかを明らかにします。
日本の文化は、その並外れた勤労倫理で広く知られていますが、その献身は往々にして、壊滅的な代償を伴います。 残念ながら、一部の企業や組織のもとで、多くの労働者が過重な負担を強いられ、友人や配偶者、そして自分の子供たちと過ごす時間といった私的な時間を徐々に犠牲にせざるを得ない状況に置かれています。一部の人々にとって、仕事は人生の意味やアイデンティティーの唯一の源泉となり、職を失うこと、あるいは仕事に目的を見出せなくなることが、自殺に至る原因となるほどです。その反対の極端な例として、日本は「ひきこもり」でも知られています。彼らは社会から完全に身を引いて、仕事や公的生活がもたらす容赦ない期待やプレッシャーから自らを隔離しているのです。
活気ある教会はやがて、成長という祝福が問題のように感じられる瞬間に必ず直面します。人が増えれば、必要が増え、必要が増えれば複雑さが増し、そして複雑さからは不満が生まれます。ルカは次のように記しています。「その頃、弟子の数が増えるにつれて、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。」(使徒の働き6:1)
日本の道徳心の強さは、しばしば称賛の的として国際的に高く評価されています。日本人の多くが公平性、社会的責任、そして他者への配慮を深く重んじています。ボランティア活動、災害救援活動、地域奉仕活動といった実践は社会的に高く評価されており、この道徳心は2011年の東日本大震災の際に特に顕著に示されました。さらに、ラグビー日本代表チームがワールドカップの試合後に更衣室を自主的に清掃した振る舞いも、広く称賛されました。このように、日本社会は、いわゆる「社会的正義」に対して、多くの点で深い関心を示しています。
日本では勇気はしばしば静かで控え目な形を取ります。調和や同意を重視する価値感のため、キリストについて語ったり、率先してリーダーシップを取ったり、正直な疑問を口に出したりする時など、際立ち、気が引けるものがあります。このような環境で公に信仰を表現したり重要なリーダーの役割を引き受けるのは容易ではありません。
日本の多くの教会開拓者や牧師にとって、牧会における最も痛ましい経験の一つは、公然とした対立ではなく沈黙です。人々は何の説明もなく去り、率直な対話なく決定が下され、問題は関係が静かに崩壊するまで隠されたままになります。
日本のプロテスタント牧会者のほぼ半数が70歳以上、その数は増加傾向にあるという統計は厳しい現実を浮き彫りにしています。数年以内には、日本の牧会者の70%以上が70代、80代、あるいは90代になる可能性があり、すでに多くの教会がリーダー不在の状態にあります。一方、日本の神学校が輩出する人材は、必要数に対してわずか3%にすら満たない状況です。
教会は、神を賛美すると同時に集う人々の心を捉える礼拝を、どのように育むことができるでしょうか。多くの教会指導者は、礼拝の二重の目的、つまり創造主を賛美すると同時に、信徒と求道者双方を福音の真理へと導くことに格闘しています。
多くのキリスト教組織は、「愛がある」ことと「効果的である」ことの間の緊張の中で生きています。リーダーたちはおそらく、どちらかを選ばねばならないという前提に立っているのでしょう。つまり、家族のような温かみのある関係性を重んじる文化を持つか、それとも真剣さと責任感をもって卓越性を追求するか、という選択です。しかし聖書は、真理と恵み、愛と効率の間でどちらかを選択せよとは決して求めていません。イエスは両方を体現され、御民にも同じことを求められます。
クリスチャンがマイノリティになりつつある多様化する社会(あるいはクリスチャンがすでにマイノリティである社会)において、私たちのミニストリー活動の根底にある動機とは何でしょうか? そういった私たちの取り組みは、信仰者の個人的な成長のみに焦点を当てているのでしょうか、それとも都市や文化との有意義な関わりにまで及んでいるでしょうか?
クリスマスを祝うこの時、神が私たちと共におられること―「インマヌエル」を改めて思い起こします。2025年を振り返り、困難の中にあっても変わらず主が日本の教会と共におられることに励まされます。そのご臨在は、牧師たちが祈りで結ばれ、若いリーダーたちが信仰を胸に抱き、ビジネスパーソンが福音のための場を創り出し、教会開拓者たちが困難な環境で忍耐し続ける―こうした意味ある関係を通して輝いています。私たちが繰り返し目にするのは、イエスがご自身の教会を築き上げているという事実です。
昨年の父ティム・ケラーの病気治療の合間をぬって、私は1980年代から2000年代にかけて父がどのように福音を語ってきたのか聞いてみた。特に私は、父が清教徒派のジョナサン・エドワーズとオランダの新カルヴァン派から受けた影響について知りたかったのだ。父(以下、ケラー)は、自身の信仰形成の初期に、内面の敬虔さよりも人生全てに及ぼすキリスト教の効果を強調する新カルヴァン主義の解釈に出会ったそうだ。(カイパーやバヴィンクが経験的敬虔に関する著作を残していないという意味ではない。単に父がそれらに接する機会がなかっただけである)そのため彼は内面の敬虔さについて探求した英国のエドワーズ、ジョン・オーウェン、ピューリタン(清教徒)ら、改革派神学を個人的で経験的なモデルに落とし込んだような著作を読んだ。
人が創造されてまだ間もない頃、エバは美しい木に飾られた蛇の投稿を目にしました。その投稿のキャプションはこうです。「こんなに素晴らしいものが間違っているなんてあり得る? #本当に神がそう言ったの? #神は善なのか?」エバは気づかないうちに禁断の果実を食べ、それを夫に与えてしまいました。
あなたは自分の行動によって神の愛を感じる度合いが上下していると感じたことはありませんか? 誠実に祈り、よく奉仕し、力強い説教をした日には、安心感を覚えます——まるで神が微笑んで見守ってくれているかのようです。
しかし、罪に陥ったり、祈りを怠ったり、宣教の働きが果たせなかった日には、神から遠く離れていると感じ、恥じ入り、さらには自分には価値がないとさえ思うのです。
ある日本人牧師が宣教活動を始めたばかりの頃、来日したばかりの宣教師にこう聞かれました。「なぜ日本では多くの教会が、アメリカの1970〜80年代ごろの礼拝スタイルを2000年代になった今でもやっているのですか? 日本の文脈に合わせてこなかったのですか?」
そう聞かれてどう答えようか戸惑った牧師はその後、他教会の牧師先生や宣教師たちと交流するうちに、その疑問の答えにつながるようなもう一つの疑問に辿り着きました。
最近、成人した娘からこんなことをよく言われるようになりました。『お父さん、若い子たちはもうその言葉は使わないよ』。最初に聞いた時は、単純に『ああ、次世代の流行語があるのかあ』という程度に聞き流していました。でも何度も言われるうちに自分の持っている文化や考え方がもはや通用しなくなってきていることを実感するようになりました。自分としては多様な文化に興味があるし、旅行で異文化に触れることはもちろん、アニメ、漫画、ゲームなどのサブカルチャーや、音楽もさまざまなジャンルに触れてきたつもりです。ですが娘のコメントで若い世代に取り残されているという感覚を覚えたのです。これをミニストリーに当てはめてみると、どうでしょうか?
私がまだクリスチャンになったばかりの頃、私を導いてくれたのは賢い兄弟でした。フルタイムでミニストリーに携わり数十年、いくつかの厳しい教訓を学んだ彼は知り合ったばかりの頃、私にとてもいいアドバイスをくれました。「誰かクリスチャンのパートナーを決めたいなら、まずその人と『デート』してみてからだね」と。たとえクリスチャン同士でも、相手をよく知りもせずにすぐ協力関係をもとうとするのはあまり賢明でないと言いたかったのです。相手の性格、賜物、神学的視点、人生における状況、その他多くの要素が、私たちが他の個人とどのようにパートナーになるかを考えるときに重要なのだと。どれも私たちが配偶者を選ぶ(あるいは選んでもらう)前に考慮するような事柄です。
キリストに従う者として私たちは、衰退していく文化とその物語に対する単なる傍観者に過ぎないのでしょうか。それとも心だけでなく、私たちのコミュニティをも変革するような信仰の刷新、つまりリバイバル運動を起こすことができるのでしょうか? その鍵は、福音はただ個人にのみ響くメッセージではなく共同体の刷新をも促す、という事実にあります。本記事では、個人における福音による刷新が、どのように教会を活気づけ、その変革へとつながるかを考察します。
もし私が自分の経験を別の都市や国で再現しようとした場合、それはとても大きな過ちを犯すことになるでしょう。私たちの経験には、どうにもコントロールできない要素が数多くあったからです。現地のリーダーたちと出会ったタイミング、経済状況、政治情勢、当時の教会のニーズ、利用可能な資源など、さまざまな要因が絡み合っていました。そのすべては神によって導かれたものでした。例えば、2人の「シェルパ」と出会ったタイミングがもっと早かったり遅かったりしていたら、結果はまったく違ったものになっていたかもしれません。
私は12年間かけて、ブルックリンのウィリアムズバーグで2つの教会を開拓しました。そのうち一つの教会は、7年間にわたる長く困難な時期の後に閉鎖されました。これは私の人生で最も苦しく、そして傷ついた経験になりました。もうひとつの教会は急速に成長し今日に至りますが、その教会を去ることは想像していた以上に混乱と孤独に満ちたものでした。前者の教会は失敗で、後者は成功だったのでしょうか? 地域に深く根ざした私の長年の取り組みは、成功と言えるのでしょうか? 貧しい人々を愛し、福音宣教に忠実だった私の粘り強さは成功だったのでしょうか?
数年前、家族と共に中国に来たとき、私はこれから待ち受ける出来事を全く予想していませんでした。私たちはもともと異文化生活と宣教活動における課題は馴染みがありました。というのも妻は台湾生まれの中国人で、私はアメリカで生まれ育ち、独身時代の数年間は中国で暮らしていたからです。また、私たち夫婦はアメリカでも二つの中国系教会の開拓を手伝い、さらに大きな大学で中国人学生や客員教授と共に何年にもわたってミニストリーの経験を積んできました。夫婦ともに中国語には不自由しないので、到着してすぐにでも宣教活動を始めたいと意気込んでいました。
「福音による刷新とは単なる出来事ではなく、生涯にわたる変革の旅である」という大胆な主張は、私たちのクリスチャン生活に対する認識に一つの疑問を投げかけるかもしれませんが、すべてのクリスチャンにとって重要な真理をいくつか簡潔に表現しています。信仰、ミニストリー、そして個人の成長という複雑な過程を経ていく中で、福音による刷新のプロセスと実践を理解することはとても重要です。それは、単にキリストを最初に信じたというだけにとどまらず、絶えずキリストにあって変革がもたらされるという恵みに満ちた経験が生まれることなのです。この記事では、福音がクリスチャンの人生にどのような影響を与えているかを考察し、福音による刷新に対して重要な応答をいくつか特定し、神が私たちの内でこの刷新というものをどう導き続けてくださっているのかを明らかにします。
21世紀という時代に育つ、それはある意味怖さを伴う条件でしょう。雇用市場は急速に変化し、相反するナラティブ(語り)が注目を集めようと競い合う中、不確実な恋愛事情も加わり、若者の成功への欲望はもっとベーシックなものに退化していく傾向があります。ズバリそれは生き残りです。現代に生きる若者にとって、地元を離れ安定した職に就き人生のパートナーを見つけることがこれまで以上に難しくなっているからです。
悔い改めは、罪悪感や恥の感情を呼び起こす言葉ですが、クリスチャンの生活において不可欠な要素です。では、なぜ多くのクリスチャンは、悔い改めをキリストとの日々の生活の一部として自然に受け入れることが難しいのでしょうか?
