宗教と無宗教の罠から逃れる

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あなたは自分の行動によって神の愛を感じる度合いが上下していると感じたことはありませんか?  誠実に祈り、よく奉仕し、力強い説教をした日には、安心感を覚えます——まるで神が微笑んで見守ってくれているかのようです。

しかし、罪に陥ったり、祈りを怠ったり、宣教の働きが果たせなかった日には、神から遠く離れていると感じ、恥じ入り、さらには自分には価値がないとさえ思うのです。

この静かな思い込み——つまり、私たちの霊的な状態によって神の愛が増減するという考え——は、クリスチャン生活において最も一般的な葛藤の一つです。これは、私たちが「義認」(神の前での立場)と「聖化」(聖さへの成長)をいかに簡単に混同しているのかを明らかにしています。

神が受け入れてくださることを私たちの業績と結びつけるとき、私たちは宗教(律法主義)へと流れていきます。神の恵みを当然視し、聖さへの招きを軽んじるとき、私たちは無宗教(放縦)へと流れていきます。どちらの溝も福音を歪めてしまいます。

しかし、福音というもっと良い、第三の道があります。ですが福音はこの両極端の間を行き来するものではありません。 むしろキリストが成し遂げられた御業によって私たちを保証し、恵みと真理の両方の中で生きる力を与えてくれるものなのです。

自ら縫ったものではない衣に覆われて

救いに関する最も美しい描写のひとつに、イザヤ書の次の言葉があります:

「私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ書61:10)

イザヤが喜んでいるのは自分自身の功績ではありません。それは神が彼に衣を着せてくださったからであって、その喜びは極めて親密で祝祭的なイメージ——婚礼、契約、自らが作り出したり獲得したりしたものではない義の衣——に満ちています。

これが義認の本質です。神は私たちを義と宣言されました。それは私たちが過ごした良い日や悪い日によるのではなく、キリストによるのです。とはいえ私たちはその衣が、祈りの生活の質や宣教の実り、日々の従順さにかかっているかのように生きていることがいかに多いことか。最良の日には、私たちはひそかに神の恵みをもう少し得られたと決めつけ、最悪の日には、それを失ったと恐れるのです。

しかしイザヤはこう思い出させます:私たちの義は行いによって縫い合わされたものではない。それは無償で与えられた賜物だ。私たちはキリストご自身によってその身が包まれている(ガラテヤ3:27)。

だからこそ福音は、二つの偽物と区別されなくてはなりません:

宗教(律法主義):*「私は従う、ゆえに受け入れられる」*

無宗教(放縦):*「私は受け入れられている、ゆえに従順は重要ではない」*

福音は全く異なることを告げます:「私はキリストにあって受け入れられている、ゆえに従順である」

キリスト者の人生を脅かす二つの「盗人」

教父テルトゥリアヌスはこう指摘しました。「キリストが二人の盗人の間に十字架につけられたように、この義認の教理もまた、二つの対立する誤りの間に常に十字架につけられている

この二つの「盗人」とは宗教と無宗教であり、聖書の至る所に現れます。 パリサイ人と取税人のたとえ話を考えてみましょう:

「パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(ルカによる福音書18:11-14)

もしあなたがその日群衆の中にいたなら、イエスが称賛するのはパリサイ人だと予想したことでしょう。尊敬され、規律正しく、道徳的に正しい人物でした。しかしイエスは、軽蔑された罪人である取税人こそが家に帰って義と認められると宣言し、聴衆を驚かせたのです。なぜでしょう?  パリサイ人は自分自身を信頼していたけれど、取税人はあわれみを求めて叫んだからです。

宗教は危険です。私たちが恵みの必要性を見失うからです。無宗教も危険です。私たちが神の聖さを見失うからです。どちらの道も、救い主としての神を避ける道です。どちらも自己救済の企て、つまり一方は自己義認によって、他方は自己放縦によって自分を救済しようとするのです。

両極端の間にあるイエス

ヨハネ8章で、宗教指導者たちは姦淫の現場を押さえられた女をイエスの前に引きずり出します。彼らは裁きを要求するのです。

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:7-11)。

イエスはパリサイ人に対して彼らの偽善を明らかにされました。彼らもまた罪人なのです。その女性に対してはあわれみを示されましたが、だからと言って罪を許すわけではありません。「好きに生きても構わない」とは言われませんでした。そうではなく、「わたしもあなたを罪に定めない…行って、もう罪を犯さないようにしなさい」と言われたのです。

このバランスがわかりますか? イエスは宗教の重圧で彼女を押し潰すことも、無宗教の精神で彼女の罪を許すこともありません。代わりに、イエスは福音を提示するのです。つまり裁きはなく、新しい命があるのです。

これこそ以下のヨハネの言った言葉の本質です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)イエスはどちらの側にも妥協しません。両方を完全に体現しているのです。

二人の息子の失われた状態

イエスは放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11-32)でこの点をさらに明確に示しています。弟は無宗教を表しています。彼は父を拒み、相続財産を浪費し、破滅に陥ります。

兄は宗教的姿勢を象徴しています。家に留まり、表向きは従順ですが、帰ってきた弟に対する父の恵みに憤りを感じます。

二人の息子はどちらも失われた存在です。

二人とも父の真意を誤解しています。

そして二人とも恵みを必要としています。

この物語のヒーローはどちらの息子でもありません。

真のヒーローは父なのです。反抗的な弟息子を抱きしめるために駆け寄り、恨みを持つ兄息子を説得するために外へ出ました。父は両者ともに代償を伴う愛を示したのです。

こうすることでイエスは神の本当の心を示しているのです。福音は、弟息子の反抗や兄息子の誇りを肯定するものではなく、両者を行き止まりとして浮き彫りにし、第三の道——すなわち「唯一の道」——を提示するのです。

著者:デイミアン・グレートリー

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グレイトリー デイミアン

グレース教会開拓ネットワーク東京のディレクター。妻の詩子との間に3人の子どもがいる。ツイッターのフォローはこちら