日本の心と真の正義

English version is here.

日本の道徳心の強さは、しばしば称賛の的として国際的に高く評価されています。日本人の多くが公平性、社会的責任、そして他者への配慮を深く重んじています。ボランティア活動、災害救援活動、地域奉仕活動といった実践は社会的に高く評価されており、この道徳心は2011年の東日本大震災の際に特に顕著に示されました。さらに、ラグビー日本代表チームがワールドカップの試合後に更衣室を自主的に清掃した振る舞いも、広く称賛されました。このように、日本社会は、いわゆる「社会的正義」に対して、多くの点で深い関心を示しています。

しかし、クリスチャンが問わなければならないのは、単に善行が行われているかどうかではなく、最終的にその行動を動機づけているものは何かということです。聖書は正義の重要性を肯定していますが、同時に、そのためのより深い基盤をも指し示しています。

聖書において、正義とは単に規則や道徳的原則の羅列ではありません。むしろ、正義は神ご自身の御性質に根ざしています。神が正義であるゆえに、神のなされるすべてのことはその正義を完全に表しているのです。



オランダの神学者ヘルマン・バヴィンクは、聖書が神の正義の二つの側面を提示していると指摘しています:



1. 報復的正義 – 神は悪行を罰し、悪に責任を問われます。

2. 修復的正義 – 神は不正に苦しむ人々を回復させ、弱い者を立ち上がらせます。



この概念は、旧約聖書におけるヘブライ語の「ツァディク/ツェデカ」(義/正義;例:レビ記19:15、申命記16:19、ミカ書6:8、ヨブ記29章、31章)という語を通しても明確に見て取れます。これらの用語には、「人々にその当然与えられるべきものを与える」という意味が込められています。



ここから、正義の二つの重要な側面が導き出されます。一つは、過ちに対する説明責任や罰という形で、人々に相応の報いを与えることです。もう一つは、人間の尊厳に基づいて人々に相応の報いを与えることであり、これは私たちに、不正に苦しむ人々を回復させ、守るよう求めています。



西洋社会では「正義」という言葉を聞くと、多くの人が連想するのはおもに「罰」ですが、日本では困っている人々への「慈悲深い行為」を思い浮かべる傾向があります。聖書はこれら両方の側面を一体のものとして捉えています。すなわち、正義には、過ちに対する罰と、不正義に苦しむ人々への回復が含まれるのです。



神は、賄賂、抑圧、あるいは弱い立場にある人々への虐待によって正義を歪めることに断固として反対しておられます。聖書は、賄賂を受け取り貧しい者への正義を否定すること(申命記16:19、箴言17:23)、外国人や寡婦、孤児を搾取すること(出エジプト記22:21–24、ゼカリヤ書7:9–10)、そして罪のない者を傷つけること(箴言6:16–19)を繰り返し非難しています。



同時に、聖書は不正に苦しむ人々の回復と擁護を求めています。神はご自分の民に対し、積極的に正義を求め、抑圧された者を守り、弱い立場にある者を顧みるよう命じておられます(イザヤ書1:17;箴言31:8–9)。義人は、貧しい人々を守り、回復させる者として描かれています。「叫び求める、苦しむ人を…助け出し……不正を働く者の牙を、砕き、その歯の間から獲物を奪い返した」(ヨブ記29:12–17)のです。聖書は繰り返し、神の正義と神のあわれみと慈しみを結びつけています。したがって、聖書における正義は冷たい法的正当性ではなく、神の恵み深い愛と深く結びついているのです。



日本では、道徳的責任を果たす動機は、しばしば社会の調和、文化的期待、そして「善い人」でありたいという内的な願望に強く根ざしています。これらの動機づけ自体は必ずしも誤っているわけではありません。実際、それらは称賛に値する行動や成果をしばしば生み出しています。



しかし、そこには見過ごせない微妙な危険が潜んでいます。善行は、時として自己義認(自らの義を肯定すること)の手段となり得るのです。他者を助ける行為が、私たちに道徳的な優越感をもたらしたり、少なくとも「自分はまともな人間だ」という安心感を与えたりするためです。その結果、正義の行いは、究極的には自己、評判、良心、あるいは満足感を中心としたものへと変質してしまいます。聖書は、こうした基盤に異議を唱えています。聖書が教えるのは、真の正義は最終的に人間の道徳的な努力から生まれるものではない、ということです。むしろ、それは神のあわれみを体験することから生まれるのです。



福音は私たちに、驚くべき真実を告げています。私たちは、正義を遂行する者である以前に、まず神の裁きを受けるに値する罪人であり、神のあわれみを必要としているのです。神はまことに世界の裁き主です。聖書は、神が悪に責任を問われ、いつの日か義をもって世界を裁かれると教えています(詩篇9:7–8、使徒行伝17:31)。しかし、裁きを行う、その同じ神こそが、罪人に対して驚くべきあわれみをも示されるのです(出エジプト記34:6–7、エペソ人への手紙2:4–5)。



私たち自身が、受けるに値しない恵みを受けたとき、他者に対する態度は根本的に変わります。正義とはもはや、自分の善さを証明する手段ではなく、神の慈しみに感謝を表すものとなるのです。神に赦され、愛されていると悟るとき、私たちは他者を違った目で見始めます。貧しい人々はもはや、単に解決すべき社会問題ではありません。なぜなら、私たち自身が神の前で霊的に貧しい者であることを認めるからです(マタイ5:3)。弱い人々は、道徳的な達成のための機会ではありません。なぜなら、私たち自身もあらゆる点で神に従うことに失敗してきたと認めているからです(ローマ3:23)。社会から疎外された人々は、私たちと同じく恵みを必要としている人々です。なぜなら、私たち自身もかつては神から切り離された「部外者」だったからです(エペソ2:12–13)。このあわれみは、謙遜から湧き出るため真実なものです。私たちは、多くの点で自分たちが「彼ら」そのものであると悟るからです。



これこそが、聖書的な正義には常にあわれみが含まれる理由です。神は悪を罰するだけでなく、傷ついた者を回復させてくださいます。聖書は、神がすべてのものを新しくし、苦しみ、悪、そして死がなくなった真に正義が支配する新しい創造を確立される未来を約束しています(イザヤ65:17;黙示録21:3–5)。したがって、クリスチャンは正義を単なる道徳的義務としてではなく、神ご自身の心の反映として追求するのです。信者が貧しい者を顧み、弱い者を守り、困っている者に仕えるとき、彼らは自分たちがすでに受けたもの、すなわち神のあわれみに応えているのです(ミカ書6:8;ヤコブの手紙2:13)。



日本社会はすでに、親切、公平さ、社会的責任を重んじています。これらは素晴らしい資質です。キリスト教はそれらを否定するのではなく、むしろ、より深く見つめるよう私たちを招いています。「私は善い人間でなければならない」という考えから始めるのではなく、福音は「神が私にあわれみを示してくださった」という根本的な気づきから始まるのです。



そのあわれみから、全く別の種類の正義が流れ出ます。それは自己肯定によってではなく、深い感謝、謙遜、そして神の愛に対する畏敬の念によって動機づけられる正義です。真の正義は、まず神の恵みに触れた心から育まれます。その恵みを経験するとき、他者を思いやることは、もはや道徳的な満足感や義務の履行のためではありません。それは、私たち自身が受けた親切に対する喜びに満ちた応答となるのです。



-----実践的ストーリー1:職場 — 葛藤の中の「戦略的正義」

IT企業のA課長は、最近、同僚のBさんが上司のC課長から不当な扱いを受けている様子を目にしていました。納期直前の業務をBさんにだけ押し付け、些細なミスでも皆の前で厳しく非難する行為が繰り返されていました。



コンプライアンス規制が進みつつあるとはいえ、日本のオフィスでは、上司の権威に対する異論はタブーとされがちです。周りの社員は皆、見て見ぬふりを決め込み、静かな同調圧力の中、Bさんは孤立していました。A課長は、自分が行動することで職場の調和を乱すかもしれないという葛藤を抱えましたが、まずは自分の内面を探り、神のあわれみに応答する修復的正義の動機があるかを確かめました。



その上で、A課長はまず、Bさんに共感を示し、二人きりで話を聞く機会を設けました。Bさんの「辛い」という感情を受け止めつつ、具体的な指示や出来事の事実確認を慎重に進めました。A課長は、C課長が家庭問題を抱えているという噂を知っていましたが、それを不正義の免罪符にはしませんでした。しかし、意見の違いや多様性を認めにくい日本の文脈では単独で異論を唱えることがBさんのみならずA課長自身もより危険に晒す可能性があるため、戦略性が求められました。



A課長はBさんの「どうしたいか」という意思を尊重し、最終的に人事部門の信頼できる窓口に相談することを提案しました。A課長自身は、Bさんの許可を得て、客観的な業務記録と事実のみを冷静に提示するサポートに徹しました。



この行動は、ドラマチックな不正の告発ではありませんでした。C課長がすぐに態度を変える保証はありませんし、人事部が迅速に対応するかどうかも不確実でした。しかし、A課長の一歩は、孤独と絶望の中にいたBさんに対し、「あなたは一人ではない」というメッセージを届ける小さな一歩となりました。A課長は、壊れた世界の中で正義を完全に確立できないことを認めながらも、神のあわれみに動かされていることを確認し、その上で同調圧力を受け入れるのではなく、 Bさんの尊厳回復のための道筋を冷静に提示しました。それは、まず自分の内面の動機を探ることから始まり、Bさんの代わりに必要以上に戦う過度な介入や、自分を守るために無関心に徹することなく、その立場でできる最善の「戦略的正義」を模索した結果だったからです。


著者:CTCJ共同執筆チーム 

2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。