私たちの働き方を変える福音

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日本の文化は、その並外れた勤労倫理で広く知られていますが、その献身は往々にして、壊滅的な代償を伴います。 残念ながら、一部の企業や組織のもとで、多くの労働者が過重な負担を強いられ、友人や配偶者、そして自分の子供たちと過ごす時間といった私的な時間を徐々に犠牲にせざるを得ない状況に置かれています。一部の人々にとって、仕事は人生の意味やアイデンティティーの唯一の源泉となり、職を失うこと、あるいは仕事に目的を見出せなくなることが、自殺に至る原因となるほどです。その反対の極端な例として、日本は「ひきこもり」でも知られています。彼らは社会から完全に身を引いて、仕事や公的生活がもたらす容赦ない期待やプレッシャーから自らを隔離しているのです。

過労と引きこもり、この二つの極端な状態は、共通する一つの根本的な問題を示しているのです。すなわち、仕事が人間のアイデンティティーと存在意義の全責任を負う時、それは私たちを押しつぶしてしまうのです。そして、その重荷に押しつぶされそうになったとき、残された唯一の選択肢は、社会からの完全な引きこもりとなってしまうのです。

このような現実に対して、クリスチャンとしての信仰はどのように語りかけるのでしょうか。仕事を人生の唯一の目的とすることも、そのプレッシャーから完全に逃げ出すこともない、新たな道を示せるのでしょうか?

解決の鍵は教会にありますが、正直なところ、教会に常にその準備があったわけではありません。私たちの神学や牧会訓練の多くは、信徒指導者、プログラム、会衆の参加といった「教会という世界」への弟子訓練に重点を置いてきました。人々の「仕事の世界」に向けての弟子訓練はほとんどが未整備だったのです。しかし今、その必要性も重要性も、かつてないほど高まっています。教会が仕事の領域に手を差し伸べるのは、メンバーの単にキャリアアップのためでもなければ、献金額を増加させる手段でもありません。その核心にあるのは、人々が自らの霊的なアイデンティティーを見出し、真の刷新を体験し、日々の仕事を「この世における神の使命への参与」として理解できるよう助けることなのです。

したがって、労働という現実は、日本の教会にとって重い責任がある領域であると同時に、驚くべき機会でもあります。そして、聖書はこの主題について決して沈黙していません。聖書は、権力と特権を持つ者たちに、自己の栄光や名声のためではなく(創世記11:4)、ただ神の栄光のためだけに働くよう呼びかけています(コリント人への手紙第一10:31、黙示録21:11)。また、搾取されている労働者に対しては尊厳と価値を語りかけ、主のためになされるいかなる仕事も、人間の上司が与えることも奪うこともできない意義を持っていることを示しています(エペソ6:7)。そして、疲れ果て、重荷を負わされている人々を、神ご自身が模範を示された安息へと招き入れます。それは現実逃避ではなく、回復をもたらす安息です(ヘブル4:9–10)。

したがって、教会はこの問いを放置しておくわけにはいきません。「私たちの信仰は、働き方をどのように形作るのか?」

福音は、内側から外側へと働きの方向性を変えます。私たちのアイデンティティーは、自分たちが生み出すものではなく、キリストが成し遂げられたことによって確かなものだと理解する時、働きは「自分という人間を確立しなければならない」という押しつぶされそうな重荷から解放されます。私たちは価値を得るために働くのではなく、すでに知られ、愛され、受け入れられているという立場から働くのです。これは単なる考え方の微調整ではありません。それは革命なのです。

過労に苦しむ人々に対して、福音はこう語ります。「あなたの価値は、あなたの業績によって決まるわけではない」。神が命じられる安息とは怠惰になることではありません。それは信頼です。すべてが自分次第だと信じることを拒むことなのです。

引きこもっている人々に、福音はこう語ります。「あなたは失格者ではない」。仕事は、たとえそれが平凡な仕事であっても、隣人への愛の行為となり、神への捧げ物となります。ですから、再び社会へと踏み出すことは可能なのです。それはシステムが修正されたからではなく、自分の価値がそもそもシステムによって決まっていたわけではないからです。

そして私たちすべてに対して、問いそのものを根本から書き換えます。私たちはもはや「仕事は私に何を与えてくれるか」と問うのではなく、「どうすれば、私が働く場所に神の御国の何かをもたらすことができるか」と問うのです。消費者から貢献者へ、自己顕示から奉仕へと移り変わるその姿勢こそが、福音の光に照らされた忠実な働きの姿なのです。

したがって、教会からの招きは、仕事を減らすことでも、もっと一生懸命働くことでもありません。それは、働き方を変えることです。恵みに根ざし、他者に向き合い、神が休息を命じられた時にそれを手放せるほど、軽やかに捉える働きです。

それが、福音が与える自由です。そして、疲れ果て、同時に引きこもりに向かっている日本だからこそ、この言葉を聞く必要があるのです。



実践的なストーリー

教会が開催する「信仰と仕事の分かち合い」で、二人のクリスチャン、優子と敬介は互いの葛藤を話し合いました。優子は大手コンサル会社に勤務し、成果を自己の価値と結びつける過労リスクを抱えていましたが、福音から見た信仰と仕事について学ぶことで、軽やかに働くことを目指すようになりました。それは「自分の価値は業績ではなくキリストにあると知っているから、神が休息を命じた時に仕事を軽やかに手放すことができる」という健全な境界線を目指す働き方でした。しかし、緊急プロジェクトが入ると、彼女はすぐに「自分という人間を証明しなければならない、クリスチャンとして卓越した仕事をする信頼できる職業人として証しなければ」というプレッシャーをひしひしと感じ、結局深夜残業の波にのまれてしまうのでした。

一方、敬介は、以前従業員の尊厳が軽視され、過度な負担が常態化していた企業で働いていた経験から、労働がもたらす弊害から逃れようと現実逃避している状態でした。「人間の尊厳は究極的には生産性では測れない」と確信を持ちながらも、再就職しても壊れた世界での労働観に対しての不信感が強く、なかなか仕事自体に打ち込む気になれず、終業後も休日も自分の趣味やプライベートの関係に終始していました。 同時に労働の弊害から逃れようと現実逃避し続けていても、何も変わらない現状に嫌気がさし始めていたため、この信仰と仕事についての集まりに参加ししてみようと思ったのでした。 仕事のプレッシャーからできるだけ距離を置きたいという怠惰に向かっていたことに自分でも薄々気づいていたのです。

優子は軽やかに働くことで多少余裕が出たので、健全な境界線を持って得た時間とコンサルタントのスキルで、敬介の自己分析を助けることになりました。しかし前述したように彼女自身の残業で約束の時間に遅れたり、敬介からの相談に集中して対応できないことが増えていきました。

ある日、優子が疲れた顔で集会に来たとき、敬介はこう言いました。「優子さん、最近本当に忙しそうですね。僕を助けてくれるのはすごくありがたいんですが、優子さんが無理をしているのを見ると、かえって申し訳なくて...。優子さんを見ていると、僕が前職で感じていた『成果を出さなきゃ価値がない』っていう重圧と、どこか似ている気がして。僕らの価値は究極的には仕事の出来じゃないって、お互い知っているのに、どうしてあんなに頑張ってしまうんでしょうね」

敬介の共感を伴った声かけによって優子は他者を助けながらも、自分自身がまだ成果依存とクリスチャンとしての矜持という二重の重荷から解放されていないという現実に直面させられました。

このやりとりは、この二人の現実に完璧な解決を与えたわけではありません。しかし福音から信仰と仕事を捉える試みのうちに、二人とも少しずつですが、確実に「価値を得るために働く」ことから「価値を与えられたから働く」ことへの転換を促されるようになりました。また職場の文化や時代の潮流にどんな影響を受けているのか、労働にどんな意味があるのかも考え始めました。

過労と怠惰の二極化に対する「第三の道」は、恵みを土台として不完全な者同士が互いの洞察とリソースを交換するといった支え合いからも開かれるのかもしれません。

著者:CTCJ共同執筆チーム 

2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。