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ある日本人牧師が宣教活動を始めたばかりの頃、来日したばかりの宣教師にこう聞かれました。「なぜ日本では多くの教会が、アメリカの1970〜80年代ごろの礼拝スタイルを2000年代になった今でもやっているのですか? 日本の文脈に合わせてこなかったのですか?」
そう聞かれてどう答えようか戸惑った牧師はその後、他教会の牧師先生や宣教師たちと交流するうちに、その疑問の答えにつながるようなもう一つの疑問に辿り着きました。それは日本人の牧師たちは海外の宣教師たちから受け継いだ礼拝スタイルを忠実に再現してきたものの、自国の文化に適合させる『文脈化』という、いわゆる試行錯誤の作業をあまりしてこなかったのではないか、という疑問です。
一般的に日本では、物事の変化はゆるやかで、パラダイムが劇的に変わることはあまりありません。新しい発想や方法を模索するよりも、「正しいやり方」を重視する傾向があるので、今日多くの牧師たちの宣教スタイルにもこれが少なからず影響を与えているのではないかと想像できます。
しかし同時に、もしかすると問題の根本は、最初に伝道した宣教師や教会指導者たちが、自分たちの教会文化の「宣教方法」だけを伝え、その方法が自然に生まれてきた背景を十分に伝えなかったことにあるのかもしれません。たとえばそれは世界観、文化分析、聖書神学といったツールとも言えますし、健全な「教理的土台」「神学的ビジョン」と言うこともできます。
どれだけ現代的なアプローチを宣教や礼拝スタイルに採用し、現代の若者が理解でき受け入れやすいような伝え方で福音を知らせたとしても、時が経ち、時代が変われば、福音の枠から外れたり、福音の要素をかなり削ったり、その教会ならではの『こだわり』または『伝統』といった一つの形式になっていきがちです。そのような経験を経て、前述の牧師はさらにこんな疑問に思い至りました。『もしかしたら日本の教会はここ数十年、同じことを繰り返してきたのではないだろうか?』つまり、海外の成功モデルが日本でも機能すると思い、ほとんど文脈化せずに何世代にもわたって適用し続けていたのではないか、という疑問です。仮にそのモデルは海外と共通の条件を持つ場所や文脈に適合し一定期間はある程度結実を見るかもしれません。しかし結局その方法でさえいずれは伝統や形式になってしまう。その繰り返しではないかと思ったのです。そんな時に「センターチャーチ」を読んだ牧師はこう述べています。
第一印象は『また同じような、海外での宣教成功ケースを薦めるクリスチャンマニュアル本だろう』でした。しかし、読み始めてすぐ自分の先入観が間違っていたことに気付かされました。ティム・ケラー氏がこの本で取り上げたのは、1)福音の捉え方、つまり「福音とは何か」という理解を正す、2)まず聖書的な世界観を持って自分の置かれている文化、文脈を理解することから始める、でした。そして誰しも、自分の国の文化や置かれてきた文化によってある種特定のバイアスがかかってしまっていることにも気づかされました。そのような歪んだレンズが影響し、聖書を読むときでさえ自分自身の文化のこだわりや伝統に傾倒してしまう。そのような自分をまず自覚し解決しなければ、正しい文脈化どころか、福音すら自分自身で歪めて伝えてしまうかもしれないという危険を感じました。
以上のべた疑問の数々を念頭に、本稿では「センターチャーチ」を参考にしながら、健全な文脈化に必要なステップについて一部紹介します。
文脈化に必要な聖書的世界観
まず最初に必要なのは、前述したように、しっかりとした聖書的世界観を養うことです。クリスチャンなら自然とその世界観は養われているのではないかと思うかもしれません。残念なことにそれは現実ではありません。ここで言う聖書的世界観とは、この世の一般的な価値観、文化、問題を、聖書を土台とする価値観から理解しなおすための視点のことです。当然、膨大な範囲が対象となりますが、一つ例をあげてみましょう。
例えば、『人間とは何か?』という疑問です。この疑問に対する一般的な価値観に対して、聖書的世界観から答えられない場合、どのように人を育成し成長させていくかという場面、例えば弟子訓練などの場面でその捉え方が歪んでしまう可能性があります。
ある牧師が教会開拓を始めた時、『私たちは生まれつきの罪人ではない』という考えを持っていた宣教師がいました。さらに『キリストによって赦され救われた私たちはもはや罪人ではないのだ!』と主張していました。『それでは私たちの人生でにおいて私たちはいつ罪人という存在になると考えるのか?』と問い返すと『赤ん坊の時に最初に罪を犯した瞬間からだ』という答えが返ってきました。そのような罪観では、今後弟子訓練を続けていく上で問題が生じることは明らかでした。つまり、もし罪が行動なら、悔い改めへの呼びかけは、単に罪深い行動を修正することを促すアプローチになってしまうからです。
しかし詩篇51でダビデがはっきり言っているように、私たちは生まれながらにして罪人です。同時に詩篇139編では、同じくダビデによって、自分がどれほど素晴らしく形作られ、神の前で尊い存在であるのかという賛美として自覚されている場面もあります。聖書によると私たちが神の似姿に創造されたのに、堕落と同時にそこから離れ、壊れてしまっている存在です(ローマ1章)。このように聖書には一見すると矛盾と思われるような二つの側面による見方があります。この矛盾を、福音のレンズで見ることができると、私たちは自分の罪や邪悪さという現実的な問題に向き合いつつ、同時にそれがキリストの十字架と復活によってすでに贖われ義とされていること、そしていつか再びキリストが来られてこの世界の全てが完全に回復するという希望を持ち続けることができます。弟子の育成と成長は、そういう意味で、誰であれそもそも神の似姿につくられたことによる尊厳の片鱗を見ながら、同時に罪という現実に共に向き合うものという理解の上に成り立つことになります。単に行動や考えを軌道修正をすることだけで終わりません。
このように人間という存在、社会の問題に対して私たちが持つ聖書的理解や判断がどのようなものかによって、私たちが教会でどのように福音を伝え、教え、弟子を育成し、私たち自身や社会が変えられていくか、という実践や行動も明らかに影響を受けるのです。
文化の理解と向き合い方
そのような聖書的に包括的な視点を持つことによって、私たちを取り巻く文化に対する理解と向き合い方も、福音のレンズを通して健全になって行きます。例えば、ローマ1-2章によると、文化も同じく、神から先天的に与えられた人間の良心、そして神の一般恩恵により、何かしらの形で御国の価値観の要素がどの文化にもある程度表れています。すなわち私たちが文化に関わるとき、どこかに神の似姿としてつくられた賞賛すべき要素が見え隠れするのです。しかし同時に、聖書的価値観から遠く離れた完全に歪んだ要素も混在しています。その両側面的な要素を認識するのは大事なのですが、リーダーがどちらかに極端に傾いてしまうと、ミニストリーや教会形成の考え方も極端になりがちです。
ある教会では世の中の文化的価値観を完全に邪悪だとし、社会から完全孤立するような教会形成を試みようとするかもしれません。あるいは、文化の良いところだけを称賛し世の中の価値観に合わせすぎ福音の真理を薄めてしまう教会は、世の中と何ら違いのない存在となってしまうかもしれません。実際、私たちはこの両極端を見てきたし、だからこそ過剰な文脈化や、過小な文脈化をしてしまう誘惑や葛藤を覚えているでしょう。またこの両極端は、結果的には以下のような同じ問題に至ってしまうことも理解できるはずです。つまり両者とも『世の光と塩』になっていないのです(マタイ5:13-16)。
だからこそ私たちはまず福音に立つことを優先します。そして福音そのものを失わない形での文脈化を目指すのです。まさしくイエスという存在こそ文脈化の現れそのものだからです。ティム・ケラー氏はこのように説明しています:
「そして何よりも説得力がある例は、受肉そのものが文脈化であったということです。神は人となられただけでなく、ガリラヤのユダヤ人として、特定の文化的背景を持った一人の人間となられました。そうすることで、私たちが神がどのようなお方なのかを理解し、受け止められるようにしてくださったのです。イエスこそが、『人』となった『ことば』(ヨハネ1:14)なのです。』
文脈化のステップ
「センターチャーチ」では、キリストのこのあり方に沿って、文脈化のステップを提案しています。
文化に入る:まずイエスが、私たちの世界に入って来てくださったように、私たちもまず『文化に入る』べきです。前述したように、あからさまに周りの文化を否定するのではなく、称賛できる要素、または共感できる要素を『入り口』として、その文化に住む人々の立場、考え方、苦しみや葛藤、またはストーリーを理解する必要があります。
文化に挑む:次に、その文化のある部分を称賛するだけではなく、イエスが地上で教え、神の国を説明し、また十字架で私たちの罪の現実を示したように、その文化において神の国から離れてしまっている、または歪めてしまっている部分、人々の人生の問題の解決や本当の満たしや喜びに至らず、機能していない部分、価値観が矛盾している部分を、愛と真理をもって指摘する必要もあります。例えば、日本では平和と協調性を求めるけれど、和を乱すことや人の目を恐れるあまり、正直な意見や真理を語れないという側面もあります。
文化(聴衆)に訴える:そのような壊れた価値観において、協調性と個性のどちらも重んじる福音の真理は、どのような解決をもたらしてくれるのでしょうか? 平和と協調性を求める日本では、キリストにあってこそ協調性と個性がどちらも尊重されるので、本当の意味での平和と協調性を保てる希望を示すことができます。逆に平和と協調性を求めるがあまり人の目を恐れ正直に真理を語れないのであれば、キリストにあってこそ全ての縛りから解放されていること、真理を語って批判されたとしても、キリストにあって神から愛され受け入れられているというアイデンティティは揺るがないという慰めがあります。文化に入り、挑み、対決するプロセスの後には必ずこのキリストにある慰めを提示する必要があるのです。
このステップは、あなたの教会、地域、生活では具体的にどのような姿として現れるのでしょうか。まずこの問いに取り組んでいくことが、現代に生きる私たちがクリスチャンとして、牧師、リーダーとして福音を文脈化していく上での最初の責任です。そのために福音とは何か、福音に立つ世界観とは何かを再認識することが重要なのです。
実践的なストーリー:
例えば地域の結びつきがとても強い文化に外部者が転入した場合、どのような反応が起こるでしょうか。驚き、批判、疑問、興味、迎合、反抗、賛同、といった様々な反応を行ったり来たりしながら適応していきます。福音によって文化に入り、挑み、訴えるプロセスは時と場合によりますが、一晩では起こりません。ある牧師はそんな地域で、子供が通っている小学校のパパ会に加わりました。皆が楽しみにしているのは行事の手伝いよりも終わってからの飲み会。最初は時間ばかり取られるので乗り気でなかったのですが、だんだんと仲良くなり、そのうち進んで幹事を引き受けるようになりました。何人かは個人的に家族や結婚の悩みを打ち明けてくれたり、逆に牧師としての働きを労ってくれたりする普通の友人としての信頼関係が築かれるようになったからです。ある時その一人が「とにかく家内安全、商売繁盛だよ」と言ったので、思わず「うん、で、その先には何があるの?」と聞き返しました。すでに友人としての信頼関係ができていた牧師は続けて「私はね、神様に会えるのが楽しみなんだよね」と言うと、キョトンとする友人。後日そんな彼から「ちょっと話聞かせてよ」というLINEがきたので駅前の喫茶店で会うことになったのです。
著者:CTCJ共同執筆チーム
2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。
