失敗することを学ぶ

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私は12年間かけて、ブルックリンのウィリアムズバーグで2つの教会を開拓しました。そのうち一つの教会は、7年間にわたる長く困難な時期の後に閉鎖されました。これは私の人生で最も苦しく、そして傷ついた経験になりました。もうひとつの教会は急速に成長し今日に至りますが、その教会を去ることは想像していた以上に混乱と孤独に満ちたものでした。前者の教会は失敗で、後者は成功だったのでしょうか? 地域に深く根ざした私の長年の取り組みは、成功と言えるのでしょうか? 貧しい人々を愛し、福音宣教に忠実だった私の粘り強さは成功だったのでしょうか?

正直に言うならば、何ヶ月、何年たっても私はこの失敗のために神の善良さ、いや存在そのものさえ疑っていました。神はどうしてこの過酷な犠牲を払うような働きに私を召されたのに、それを破綻させたのでしょう。神は私を見捨てたのでしょうか。そして神を愛してはいるけれど、私が一番必要な時に去って行ったり裏切ったりした人たちはどうでしょう。人を本当に信頼することはできるのでしょうか。使徒的で先駆的な教会開拓は非常に難しい働きなのです。

教会開拓者やミニストリーリーダーにとって、成功を明確な指標で測定することは困難です。それは、日曜日の出席者数、洗礼者数、グループへの参加者数、奉仕活動、あるいは信仰の年数によって測定できるのでしょうか? 成功は、私の教派のリーダーや長老たち、ネットワーク、あるいは私の両親の意見によって決まるのでしょうか?

私は、「成功」を再定義しようとしているミニストリーリーダーたちとの数えきれないほどの会話に参加してきました。その多くは、忠実さが鍵だと考えています。成功とは、自分の召命に従ってミニストリーを行い、道徳的な過ちを犯さず、何年も地域社会で人々に寄り添って生き、毎週、熱心に祈り、福音を宣べ伝えることだと。しかし、もし誰一人として洗礼を受けなかったとしたら?私たちの教会があるにもかかわらず、地域社会がまったく改善されなかったとすれば? 他のリーダーたちは、成功の指標として実りの数を見ます。大抵の場合、そのようなリーダーは個人の賜物や「他のミニストリーと一味違う何か」とか「一番実りのあるミニストリーの場」とコード化されたビジョンによって成功を判断します。成功イコール並外れた日曜礼拝の参加者数、効果的な地域の奉仕イベント、日曜日の説教への反応の数ということになります。結局、実りとは神が私たちと一緒にいるという意味ですよね?

多くの教会開拓者にとって、生き残りと持続可能性が成功の尺度です。教会を開拓し、財政的に安定させれば、私は成功したことになる。この基準は、一見理にかなっています。私は教会を開拓しようとしたのですから、持続可能な教会を開拓すれば、私は成功したことになるのです。しかし、もし私の妻が不幸で私から離れるつもりだったとしたら? もし私の子供が教会(そして神)を憎むようになったら? もし私が開拓し成功させた教会が、神の国や神が私に与えた新しい教会のビジョンを実際に示していないとしたら? もし私が感情的に疲弊したり、体に不調を来したり、怒りや恨みで満たされていたり、霊的に死んでいたとしたら? もし最終的にイエスが私に「私から離れなさい、私はあなたを知らない」と言ったとしたらどうでしょう。

世俗的な起業家の世界では失敗は称賛されます。失敗は創造、リスク、冒険を意味するからです。その上、失敗はリーダーの実質的な学びや成長につながります。私たちは教会開拓者であり、最も創造的な起業家であり、教会を通して世界へ捧げられるキリストの使徒であり、贈り物です。それにもかかわらず、私たちは失敗を極度に恐れて、成功という概念に取り憑かれているために、リスクがなく、似たりよったりな平凡な教会を建てます。神の御国を探求することは創造的で冒険的で危険を伴う働きです。計ることができない独特な愛が必要です。私たちはどうしてそれほど失敗を恐れるのでしょう。

正直なところ、「失敗」は私にとってこれまでで最高の出来事でした。それは、私に神の子供としてのアイデンティティを再認識させ、神のための教会開拓者としてのアイデンティティを根本から覆しました。それは、神の御国の真の本質、つまり「逆さまの世界」について教えてくれました。それは、すべての悲しみ、喪失、不正がない天国への深い憧れを生み出しました。より良い物語の可能性にのみ希望を置く人々について理解できるようになりました。

十字架にかけられたイエスは当時の社会に生きる人々の目には失敗者だと写りました。復活の後でさえ、十字架は宗教(ユダヤ人)や哲学(ギリシア人)の目安でみると、「ばかげている」と考えられました。1世紀の知識人たちは、キリストの十字架は意味がないと考えていました。しかし、この十字架は私たちの救いです。世界の救いです。そして、神の愛の唯一無二の現れです。

イエスは「十字架を背負って私について来なさい」と言われました。これは「失敗のように見えることをしなさい」と言っているのでしょうか? 1世紀の頃のように、もし文字通り一人残らず成功と失敗について間違っていたらどうでしょうか? 神の御国は社会的な価値観や見方と比べていつも逆さまに見えます。どうして成功と失敗は違うのでしょう? 一見、神の愛は逆転を好むようです。神の話は全て復活で終わりますが、復活には死がなければなりません。人や状況が乱れて壊れていればいるほど復活の物語は美しく、重みを持って、輝かしいのです。

成功は過大評価されています。いや過大評価されすぎです。それにもかかわらず誰でも欲しがります。そのために眠れない夜もあるし、それを追求するために人生が変わる決断もします。それを守るために人を操作したり傷つけたりもします。他人の目によく映るように事実を曲げたり(嘘をついたり)します。失敗を避けるために大胆な、神の国の規模のビジョンを捨てたり、過去の失敗の経験から深い抑うつ状態に陥ったりします。失敗の可能性を考えただけで、圧倒的な不安と恐怖に襲われる生き方です。

もしミニストリーのリーダーが「成功する教会開拓」について心配し過ぎるかわりに、知恵を用いて、私たちの地域や都市で、救い、弟子訓練、癒し、和解の突破口を求めるコミュニティを立ち上げることに目を向け、神の御国を追求したらどうなるでしょうか? そうすれば、より多くの失敗が認識されるようになります。すると、さらに多くの人々が「復活」を経験するでしょう。そうすれば、真に創造的で、その状況に適した教会開拓の動きが生まれると私は信じています。教会開拓者たちとその家族は、福音においてより健全になり、その教会はより実り多いものになると思います。

神はあなたのストーリーに「失敗」と書き加えられただけかもしれません。又、そうすることで、神はあなたの人生が永遠に変わるように近寄ってこられるでしょう。あなたが神の善に疑問を抱いたり怒りや恐れと戦う時、神は忍耐強く聞いて下さいます。皆が去って行っても、神はあなたと一緒にいることを教えてくださいます。教会があなたを傷つけたとしても、守りと配慮をもってあなたを抱きしめます。そして、私たちを低くして互いの目を合わせ、同じ人間として、共に救い主を待ち望むように、忘れられた者、貧しい者、無力な者、そして私たちの中の「失敗者」に目を向けるように、あなたの目を開かれます。

教会開拓は、非常に孤独な作業です。私も、何度夜中に天井をじっと見つめ、困難な教会の状況を頭の中で整理したり、眠りにつけるように祈ったり、悪魔の激しい矢に立ち向かおうとしたことでしょう。しかし、そのような時こそ人格が形成され、神にさらに頼るようになるので、本当の価値があると思います。また、私たちが互いに支え合うこともできます。一緒に集まって、本音で話し合い、神の国の可能性について夢を語る時間が持てたらどんなにいいでしょう。しかし、今はこのブログ記事で我慢してください。もしよろしかったら、あなたの物語を私たちと共有してください。あなたの物語も大切だからです。

本記事は許可を得て以下の記事を翻訳掲載しています。

https://redeemercitytocity.com/articles-stories/learning-to-fail

著者:ロバート・エルキン

12年間にわたりニューヨークのブルックリンで2つの教会開拓を率い、現在はシティ・トゥ・シティでニューヨーク市全域の教会開拓者を育成、指導する仕事に従事しています。妻と2人の子供の父親であり、エニアグラムのタイプは7、希望に満ちた夢想家。