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日本の教会で主要な指導者となる召命を見極める
日本のプロテスタント牧会者のほぼ半数が70歳以上、その数は増加傾向にあるという統計は厳しい現実を浮き彫りにしています。数年以内には、日本の牧会者の70%以上が70代、80代、あるいは90代になる可能性があり、すでに多くの教会がリーダー不在の状態にあります。一方、日本の神学校が輩出する人材は、必要数に対してわずか3%にすら満たない状況です。
こういった数字の背景には霊的な課題が潜んでいます。日本の教会は小規模で高齢化してはいますが、だからと言って神の働きが衰えているわけではありません。収穫は依然として豊かなのに働き手が少ないのです。だからこそ、忠実な奉仕者の多くが問わねばならないのは、以下のような問いです。「自分はチームメンバーとしての役割を離れる(つまりリーダーとなる)時が来たのだろうか?」
チームメンバーとしての役割そのものは神に召された良き立場です。執事、長老、あるいは裏方として他者を支え、忠実に仕えるリーダーの一人としての立場です。しかし、もし神が一部の人々に主たる指導者としての、つまり牧師、開拓者、主要な羊飼いとして導く役割へ移るよう招いておられるとしたらどうでしょうか? 誇りや恐れなく、その招きを見分けるにはどうすればよいでしょうか?
この問いを探るため、ヨシュア記1章1〜9節を開きましょう。ヨシュアはチームメンバーの役割をよく知っていました。何十年もの間、モーセの下で仕えてきた彼は戦いを指揮し、報告者としての役割を果たし、モーセの傍らに誠実に立ち続けました。しかし今やモーセは去り、神は「立ち上がれ」と命じられたのです。ヨシュアは複雑さ、不確実性、恐怖に直面しながら皆の前に立つ指導者としての歩みを始めたのです。彼の物語は、チームメンバーの役割から主要な指導者の立場へ移るべきかを見極めようとする者たちへ教訓を与えてくれます。
喪失と必要の中で響く神の招き
「わたしのしもべモーセは死んだ。みな、、、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。」神のことばは衝撃的です。ヨシュアが招かれる前に、喪失が想起されます。古き指導者は去り、必要は現実のものとなりました。過去のしもべたちがその役目を終え、新たな者たちが立ち上がらねばならない時が、どの世代にも訪れます。
日本では、多くの「モーセ」たちが数十年にわたり忠実に仕えてきました。彼らは祈り、説教し、困難の中でも牧会を続けてきました。しかし、やがてバトンを渡す時が来ます。必要は計り知れません。著名なリーダーではなく、神のことばに従って立ち上がる忠実な羊飼いが求められているのです。
ヨシュアは野心から志願したのではありません。必要から生まれた神の招きに応えたのです。同様に、主要な指導者となることを考える者は、教会の必要の中にある神の呼び声に耳を傾けねばなりません。問うべきは「準備ができているか?」ではなく、「神が私に立ち上がるよう求めておられるか?」なのです。
神が呼ぶ時、その臨在も約束されます:「わたしは…あなたとともにいる。」(ヨシュア記1:5)。指導者が前に出る理由は、自分たちが十分だからではなく、神が十分だからなのです。
指導者とは、勇気をもって複雑さに立ち向かうこと
ヨシュアの任務は、疲弊した大勢の民を敵対的な地へ導くことだったので、そこには軍事的脅威と内部の分裂に直面することが予想されます。神はその課題を軽んじませんでした。むしろ三度も命令を繰り返されたのです。「強く、雄々しくあれ」
主要な指導者には常に複雑さが伴います。決断は増え、人間関係は多方向に広がります。期待と批判が四方八方から押し寄せます。後退し、チームメンバーの一人という安全な立場に留まっていたい誘惑に駆られます。しかし神は、人格ではなく約束に根ざした勇気をリーダーに求めるのです。
「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは…あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)。勇気とは恐怖の不在ではなく、より大きな確信の存在です 。神が共におられることを知るリーダーは、不確実性にも自信を持って立ち向かうことができます。
ミニストリーにおいて勇気とは、全貌が見えない中で賢明な決断を下す姿です。制御できない部分を神に委ね、一人で担えない部分を他者に託すことです。主要なリーダーシップへの移行を考える者にとって、問うべきは「全てを自分で処理できるか?」ではなく「それを成し得るお方を信頼できるか?」なのです。
主要指導者の役割には従順と謙遜が求められる
神がヨシュアに次に語られた言葉は、戦略とは無関係で、誠実さに関わるものでした。「ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである…このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」(ヨシュア記1:7-8)
つまり、リーダーシップは服従から始まります。主要な指導者の役割は王座ではなく祭壇です。神の御業は、神のことばによって心を形作られる指導者を通して前進します。ヨシュアの成功はカリスマ性からではなく、揺るがず、謙虚に、日々聖書に忠実でいるという従順さから来るのです。
日本だけでなくどこでも潜在的なリーダーにとって、これは極めて重要です。トップに立つ指導者としての誘惑は、実績や人気によって自己を定義しようとする点にあります。
しかし私たちのアイデンティティーは、自分が達成する業績ではなく、神の召しと御性質に根ざしていなければなりません。主の中で自分の価値が確かなものであると知る指導者は、自分自身を証明しなければならないという疲弊する欲求から解放されます。従順でいるとは、何かを成し遂げるかどうかという試練ではなく、神に信頼し続ける行為となるのです。指導者の価値感が、人からの承認や目に見える結果ではなく、神に属することから生まれると、謙遜は自然に身につき、勇気が持続するようになります。
勇気が育つ土壌は謙遜さです。謙虚な指導者は、自分が全てを知っているわけではないと自覚しているからこそ、速やかに学ぶことができます。ヨシュアがモーセの後継者となった時、前任者のスタイルを模倣しようとはしませんでした。新たに神の臨在を求めました。同様に、主要な指導者の役割を担う者は、まだ知らないことを学び、助言を求め、聖霊により頼まなければなりません。最高の指導者とは生涯学び続ける者です。悔い改め、省み、日々心を新たにさせられます。
もしあなたがそのような役割を考えたなら、こう自問してみてください。「私は誰かに何かを教えられる覚悟ができているだろうか?」
主要指導者になるとは、あなたの謙遜さが試されるということです。これまで経験したことのない問題に直面し、自分の力量を超えたと感じる時が訪れるでしょう。しかし聖霊は、弱さを通して指導者をキリストの似姿へと形作るために、まさにその場所でこそそのような指導者と出会うことを喜ばれるのです。
自らの限界を告白する時、神の恵みがその隙間を埋めてくださいます。
不安からではなく、安らぎから導く
最後に、神はヨシュアへの召しの要点をこうまとめられます。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから」(ヨシュア記1:9)
教会開拓者、牧師、ミニストリーディレクターなど、主要な指導者なら誰もが恐れや疲労の瞬間を経験します。しかし不安に対する処方箋は自己依存ではなく、次のような神の臨在の約束です。「あなたの神、主はあなたと共におられる。」
この約束が聖書にどれほど頻繁に登場するか注目してください。神は飢饉の中のイサクに(創世記26:24)、ファラオの前に立つモーセに(出エジプト記3:12)、捕囚の民イスラエルに(イザヤ書41:10)、そして大宣教命令の前に弟子たちにこう語られました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。
ヨシュアをカナンの地へ遣わした同じ神が、同じ臨在の約束をもって、教会をこの世へ遣わされるのです。
日本において、この真理は極めて重要です。文化的抵抗、信徒数の減少、限られた資源といった課題は現実です。しかしキリストは御民を見捨ててはいません。信仰をもって踏み出す者たちに、今も御霊は力を与えておられます。神が共にいてくださると知る指導者は、不安のない主のご臨在の中で、未知なるものに向き合えるのです。
これは無謀な野心への呼びかけではなく、安息に満ちた従順への招きです。私たちは、落ち着きのなさからではなく安息から、不安定さからではなく確かなアイデンティティから導くのです。私たちの価値は役割にあるのではなく、贖い主にあるからです。たとえ失敗しても、神は変わることなく忠実です。たとえつまずいても、神の恵みは回復をもたらします。
適切な時を見極める
ヨシュアの物語はヨシュア記1章から始まったのではありません。彼は何年も準備を重ねてきました。モーセに仕え、指導力を観察し、小さなことにも従順であることを学んだのです。その時が来た時、彼は準備ができていると感じたわけでは決してありません。しかし忠実さが彼を形成していたのです。
日本(あるいはどこであれ)において、チームメンバーから主要な指導者への移行を見極めようとする人々にとって、その過程にはしばしば次のような問いが伴います。
私は忠実さから離れるのか、それとも挫折感から離れるのか? 今私が担っている働きを引き継ぐ者たちに投資してきたか? 私がいなくても繁栄できるシステムと人材を育ててきたか? そして最も重要なのは、この新しい役割が福音にさらに実りある奉仕を可能にするか?
離れるのに「完璧な」時などほとんどありません。未完の仕事や未解決の問題は常に残るでしょう。しかし神が招かれる時、遅延は不従順となります。重要なのは、先走ることでも遅れを取ることでもなく、御霊と歩調を合わせて進むことです。
日本の多くの教会にとって、この必要性は差し迫っています。数多くの会衆が指導者を待っています。次世代は立ち上がらねばなりません——名声を求めるためではなく、勇気と思いやりをもって神の民を牧するために。もしあなたでなければ、いったい誰がその役割をを担うのでしょうか?
福音と勇気への招き
ヨシュアの使命は、それ自体を超えたところを指し示しています。
勇気、従順、臨在を完全に体現した指導者はヨシュアではなくイエスでした。イエスこそがより偉大なヨシュア——その名が「主は救う」を意味する方です。キリストはいわば究極のヨルダン川を渡り、民を物理的な地ではなく神の王国へと導かれました。その死と復活を通して、神が私たちを決して見捨てず、離れないという約束を確かなものとしたのです(ヘブル13:5)。
私たちが指導者の立場に立つとき、それはイエスの権威のもと、イエスの力によって行われるのです。福音は私たちを失敗への恐れから解放します。なぜなら私たちの成功はキリストに確かなものとして保証されているからです。福音は私たちに謙遜を与えます。なぜなら指導者とは、地位ではなく仕えることだからです。そして福音は私たちを大胆にさせます。イエスを死からよみがえらせた御霊が今、私たちの中に住まわれているからです。
だからこそ、日本の教会が世代交代という重大な局面を迎える今、神は忠実なチームメンバーの幾人かにこうささやいておられるのかもしれません。「立ち上がれ。あなたが準備できているからではなく、神があなたと共にいるから。あなたの王国を築くためではなく、神の王国に仕えるためだから」
この一歩を模索する方々への考察をいくつか記します。
第一に、勇気は神との交わりから生まれることを覚えてください。神の臨在があなたの確信となるまで、御言葉と祈りの時を過ごしてください。ヨシュアの成功は、経営術ではなく聖書を思い巡らすことから始まりました。
第二に、リーダーシップを握りしめすぎないように。あなたは所有者ではなく、管理者です。喜んで仕えつつ、神が召された時には手放す準備をしてください。
第三に、支配ではなく、主により頼むことによって導いてください。賢明な助言を求め、責任を分かち合い、謙遜さを育てましょう。神は、自らの必要を自覚する指導者を喜んで用いられます。
第四に、キリストのみにあなたのアイデンティティを見出してください。肩書は変わり、実りは移ろいゆきます。しかし、「何ものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、あなたを引き離すことはできません」(ローマ8:39)
最後に、主要な指導者の役割は、変わらずしもべとしての役割であることを覚えておいてください。イエスは言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイ20:26)。真のリーダーシップは他者のために自らを捧げる愛である十字架を反映します。
今日、日本の教会には以上のような指導者が必要です。聖書に根ざし、謙遜と勇気を持つ男女が、キリストの名のために立ち上がる必要があります。大切なのはあなたが十分かどうかではなく、十分であられるお方を信頼するかどうかです。結局のところ、ヨシュアを召された主は、今日もそのしもべたちにこう呼びかけられます。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない…あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから」(ヨシュア記1:9)。
著者:グレートリー・デイミアン Damian Grateley
