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パートナーシップは文脈化されなければならない
もし私が自分の経験を別の都市や国で再現しようとした場合、それはとても大きな過ちを犯すことになるでしょう。私たちの経験には、どうにもコントロールできない要素が数多くあったからです。現地のリーダーたちと出会ったタイミング、経済状況、政治情勢、当時の教会のニーズ、利用可能な資源など、さまざまな要因が絡み合っていました。そのすべては神によって導かれたものでした。例えば、2人の「シェルパ」と出会ったタイミングがもっと早かったり遅かったりしていたら、結果はまったく違ったものになっていたかもしれません。
一般の書店やキリスト教書店には、自分の成功体験談を他人に伝える「ハウツー本」が溢れています。ビジネス運営にしろ教会開拓にしろ、経験を重視し、諸条件を無視するところが誤りです。例えば、この原稿を書くことで私も同じ過ちを犯しかねないことを痛感しています。
それでも私が強調したいと思っているのは、実りある異文化間のミニストリーに欠かせない要素、つまり外国人の宣教師と現地の教会リーダーとのパートナーシップについてです。
自分が奉仕する状況をよく理解し、それに合ったパートナーシップのスタイルを選ぶことが重要です。一般的に、パートナーシップのスタイルは、宣教師の介入を最小限にとどめる支援的なアプローチから、むしろ指導的役割を果たすものまで多岐にわたります。その文脈に最も適したパートナーシップがどのようなものであれ、始める前にパートナーシップの具体的な形を詳細に検討することが不可欠です。
このようなパートナーシップを築くための3つの要素があります。第一に不可欠なのは、文脈化に関する確固とした神学です。重要なのは、自分が召された文化にどのように向き合い、福音をどう示すかです。第二に、健全なパートナーシップ哲学です。現地の人と外国人の多文化チームで仕事をする場合、現地の文化を見下したり、意図せずに外国人の文化を福音による生き方と同義と考えて推進したりすることは絶対に避けなければなりません。そして最後に、現地のパートナーを選ぶ際には、深い知恵が求められます。あなたと仕事をしたいと思っている人であれば誰でもあなたにふさわしいというわけではありません。現地のリーダーたちを知るために時間を費やすことは、絶対に欠かせない作業です(この点については、次回の記事で詳しく説明します)。
文脈化に関する神学
シェルパは登山に欠かせない存在であると前述しました。それは、彼らが地形をよく知っていて、高地に順応しているからです。同様に、異文化間のミニストリーにおいても、文化的な地形をナビゲートする、つまり文脈化のために現地のリーダーたちの助けが必要です。
20年以上前、私が中国で若い教師だった頃、いくつかの重要な用事を済ませるために頻繁に在外公館を訪問していました。
そこにいた英語を話せないスタッフと、私のつたない中国語で何とか会話しようとしていたところ、英語は話せないがロシア語なら話せる男性が話しかけてきました。彼は中国とロシアが親密な関係にあった時代にロシア語を学んだ人でした。時折、中央アジアに出張に行くことがあって、世界中で多くのイスラム教徒の男性が着用するチューブタイカという帽子をお土産に持って帰ってきました。それを私にプレゼントしてくれたのです。私はとても喜んで部屋に誇らしげに飾りましたが、内心「なぜこんな素敵な帽子をくれたのだろう?」と不思議に思っていました。
数年後、その帽子を中国人の妻に見せて私が被ってみると、彼女は「外で私と一緒にいる時は絶対に被らないで」と注意したのです。
なぜ彼女はそんなに強い反応をしたのでしょう? それがイスラム教徒の帽子でキリスト教徒である私たちにそぐわないからでしょうか? いいえ、問題は帽子の色でした。中国の文化では「緑の帽子を被る」とは妻に浮気されている夫を指す表現なのです。
文脈化における第一の教訓:物事は表面通りではない。
文脈化について議論する際には、文化を越えたもの(あらゆる文化、あらゆる時代に適用される普遍的な真理)と、変化の余地のあるものを特定する、という基本的な準備作業が重要です。この議論については1 冊の本を費やせるほど広範なので、ここで十分に説明することはできません。しかし普遍的な真理を概略するとしたら、神の存在、人間の堕落した性質と罪、人間の中に宿る神の像、贖いの必要性など、何世紀にもわたってクリスチャンが合意してきた福音の基本的な要素が挙げられるでしょう。もちろん、他にも多くの普遍的な真理がありますが、基本的な真理を明確に理解していないと、福音の本質である、いのちを与えるメッセージから逸脱してしまう危険があります。
さらに、 文脈化の方法に関して非常に確固とした神学が不可欠です。現場では難しい問題がいくつも議論されています。イスラム教徒への宣教に関する内部運動(Insider Movement)に関する現在の議論はその一例です。私は中国におけるイスラム教少数派グループへの宣教に従事する人々との親密な交流がありますが、議論の一部は普遍的なものと文化的なものの境界に触れています。一部の提案は福音の文脈化を過剰に強調し、他の提案は不足しています。どこまでが過剰で、どこまでが不足なのでしょうか?
この問題に取り組むにあたって、過去の世代が同じような問題に対処する際につまずいてきた障害や落とし穴があります。それを避けるためには、文脈化に関する確固たる神学的な枠組みを持つことが大きな助けとなります。
まずそもそも、なぜ文脈化する必要があるのでしょうか? 私は、文脈化は避けられないものであり、私たちは常に文脈化を行っているという前提で話を進めます。ただし、その疑問に対する率直な答えは、聖書を見れば十分です。聖書はそのメッセージがどのように文脈化されているか、明確な例を数多く示してくれているからです。
第一に、聖書は三つの異なる言語で書かれています。神の言葉がヘブル語とアラム語からギリシャ語に移行したとき、その背後には、神の言葉が多くの文化や文脈に語りかけるものであり、言語自体が文脈の問題であるという暗黙の前提がありました。その明確なメッセージは、成就した預言、すなわち、選ばれた者たちにイスラエル以外の者たちも含まれる日が来ることを、神の言葉があらかじめ告げていたということです。
第二に、神の真理を伝えるために使用される言葉の種類は、文脈化について教えてくれます。キリストを「ロゴス」と呼ぶことは、ロゴスの深い意味を理解していたギリシャ人の聴衆には非常に理解しやすい表現でしたが、異教の起源を持つ言葉と意味が混同されるリスクもありました。ヨハネは、そのリスクがあるにもかかわらず、聖霊の導きによりこの言葉を用い、神のメシヤの概念を深く、ギリシャ的な言葉と概念で文脈化しました。福音の普遍的な真理は、聖霊の力によって文化的文脈のレンズを通じ、変更や希薄化されることなく伝えられます。
最後に、おそらく最も明確な例は、使徒の働き 17 章にある、ギリシャの知識人たちに宛てたパウロのメッセージでしょう。パウロは、彼らが究極の真理を求めて探している主は神である、と彼らが理解できる言葉と文脈で表現しています。ここでも、現地の聴衆に誤解される危険性があったことは確かです。しかし、私が言いたいのは、文脈化は必然である、ということです。どのように文脈化を行うか、そこが私たちが真摯に取り組み、努力すべき点なのです。
このトピックは、ここで取り上げるにはあまりにも広範囲にわたるため、ティモシー・ケラー氏の著書『センターチャーチ』から引用して説明したいと思います。ケラー氏は、文脈化の困難な作業に着手する上で非常に役立つパラダイムを示しています。それは、特定の民族の文化から完全に切り離されたキリスト教文化など存在しないという考え方に基づいています。キリスト教は、常に特定の文化の中で機能するものです。
したがって、福音を一つの文化に伝える際、私たちは「純粋なキリスト教文化」の青写真に基づいて作業するわけではありません。私たちは、その文化のどの価値観が福音によって肯定され、どの価値観が挑戦されているかを理解して、文化にアプローチする必要があります。ケラーは次のように書いています。
「そうするためには、文化に挑む前に、文化に入ることが重要なのである。文化に対する批判は、その文化の信念や価値観を肯定することなしには、説得力を持つことはない。私たちは、人々が正しいと信じている事柄を土台にして、人々が誤って信じていることに挑むことができるのである。これまで述べてきたように、それぞれの文化には、その文化の信念とキリスト教の信念が重なり合う部分がある。」(206)
パートナーシップの哲学
パートナーシップは聖書に馴染みのない用語ではありません。パウロとバルナバは宣教活動においてパートナーでした。異文化間のパートナーシップも、聖書において珍しいものではありません。
ピリピ人への手紙1章4-5節の理解に基づき、クリスチャンは、真のパートナーシップ(κοινωνίᾳ)は、キリストを通した神との交わり(koinonia)に基づいているという共通の理解を持っています。キリストとの個人的な交わりと、教会としての交わりが、互いの一致の鍵となる必要があります。これに基づき私たちは「パートナーシップ」が、私たちの信仰のDNAに刻み込まれているものだと理解しているのです。
したがって、私たちの心は、自然とそのようなパートナーシップに向かうべきですが、理論的にパートナーシップが重要だと信じるのと、実際に他者とパートナーシップを結ぶことは別の問題です。聖書には、初期の教会でもパートナーシップに関する問題が生じたことが記されています。パウロとバルナバは意見の相違から分裂し、教会史の二千年間にも多くの分裂が見られます。しかし要点はシンプルです。パートナーシップは常に容易に実現するものではなく、クリスチャンとしてどのようにパートナーシップを築くかについて、私たちは楽観視しすぎてはならないのです。
例えば、西欧の団体が中国の家庭教会と協力してタイに宣教師を派遣するとしたら、具体的にどのような形になるでしょうか? 韓国の教会が中国の外国人労働者と協力して中国国内で異文化宣教を行うとしたら、どのように実現するでしょうか? カンボジアのチームがフィリピン人、白人系アメリカ人、2世の韓国系アメリカ人、中国系アメリカ人と共に機能するとは、どのような姿なのでしょうか?
共通の言語でコミュニケーションを取る方法や、文化的な期待をどう乗り越えるかといった問題は複雑です。さらに、神学的な違い、宣教の目的の違いといった問題もあります。これらの問題の複雑さに圧倒され、最終的に「どうにもならない」と諦めてしまうこともあります。
実践的で聖書的な原則やガイドラインを確立し、そのkoinonia(共同体)を目指すための方法をよりよく理解する道はあるのでしょうか? 私は可能だと信じていて、それを「方向性のあるコイノニア」として提示したいと思います。
「方向性」とは、出発点と目標を指します。出発点は、私たちのアイデンティティを形作る多くの要素(教派、神学、方法、文化、言語など)を真剣に受け止めつつ、同時にそれらがコイノニアの分裂や断絶を引き起こす可能性にも目を向けるものです。これらを「二次的なアイデンティティ」と呼びます。キリスト教の「コイノニア」の目標は、聖書的な、聖霊に満たされた知恵をもって追求されなければなりません。私たちは、新しい天と新しい地が来るまで、互いに完全な一致を実現することはできないことを認識しつつ、常にその目標に向かって努力し続ける必要があります。「コイノニア」とは、キリストにおける私たちのアイデンティティの一部として既に持っているもの——共通のアイデンティティ、主要なアイデンティティ——を指します。最終的な目標は、当然ながら、私たちが個人として、そしてこの地上と新しい地上で統一されたからだとして、主なる神に栄光を帰することです。
主要なアイデンティティと二次的なアイデンティティは、神から与えられた祝福です。使徒の働き17章26-28節は、神のご計画の一部として、その二次的なアイデンティティをどう捉えるべきかを明確に示しています:
「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです」
コミュニティ(国家、文化、言語)と私たちの個々の生活の時期と場所を決定することで、神は私たちの二次的なアイデンティティを形作り、神を求めるよう私たちを呼びかけます。この聖書箇所は、方向性のあるコイノニアにおける二次的なアイデンティティの役割を理解するために非常に重要です。クリスチャンとして、私たちは一次的なアイデンティティも二次的なアイデンティティも、基本的に否定的なものとして考えることはできません。なぜなら、それらは神によってあらかじめ定められたものだからです。
キリスト教のコイノニアにおいて、最も深刻な崩壊を経験するのは、多くの場合、私たちの二次的なアイデンティティの領域です(例:人種差別、派閥主義、性差別)。したがって、二次的なアイデンティティを、知恵と聖霊に満たされた助言をもって扱うことが不可欠です。私たちは、コイノニアを妨げる不要な側面を自覚しつつ、自らの二次的アイデンティティを完全に放棄しないよう、内省を促されています。二次的アイデンティティを放棄することは、危険であり、むしろ聖書に逆行する行為です。
私は自身の召命である外国宣教の働きにおいて、自らの経験から内省した結果、宣教対象の文化を理解する過程で、私の二次的アイデンティティに関する重大な過ちをいくつか犯したことに気づきました。
1986年、私は中国で宣教活動を行うよう神から召しを受けました。そこで、中国語を勉強し、文化を学び、中国の人々に宣教活動に従事することを決心しました。そして1993年、台湾出身の若い中国人女性と出会いました。今では私の妻となった彼女も、私と同じように中国の人々に福音を伝えたいという情熱を抱いていました。
1996年に私たちが結婚すると、異文化理解という本当の冒険がはじまりました。当然、私たちは衝突を経験しましたが、私はその衝突の本質を理解できない深い無力感を感じていました。結婚して2年が経った頃、私自身の中に、摩擦(緊張感と混乱)を引き起こす何かがあることに気づきました。妻の愛と承認を得るために、本質的に中国人になることを自分自身に期待してしまっていたことに気づきました。この無意識の期待が、私たちの結婚における緊張と混乱の本当の原因を理解する妨げになっていました。
自分が誰であるのか(ワシントンD.C.の郊外で育った白人アメリカ人であり、神を愛し、中国を愛し、妻を愛する人間)に(として)自由を感じた時、私たちの結婚とコミュニケーションは、以前にはなかった深い豊かさと理解のレベルを体験し始めました。彼女の私への愛は、私がどれだけ「中国人」になれるかにかかっているという理解が、お互いの二次的なアイデンティティを受け入れることで得られる本当の親密さを体験する邪魔になっていました。それは私たちのコイノニアを妨げていたのです。
これは、私たちがパートナーとして共に歩む上で重要ないくつかの示唆を与えてくれます。同じ使命を共有するだけでは不十分です。むしろお互いを理解する上で、どのように成長し続けるかを学ぶ必要があるのです。
編集者注:この記事は元々、チャイナパートナーシップによって公開されたものです。この3部作のシリーズでは、サ・ジョン・ズィが宣教活動における現地の人々との協力の重要性について論じています。今回は、著者が山登りと現地の宣教活動のパートナーシップにおける類似点について紹介します。Redeemer City to City の許可を得て翻訳、転載しています。
サ・ジョン・ズィ(「種をまく」という意味)は、中国の家庭教会の支援と強化に協力しているアメリカ人のペンネームです。