English version is here.
「対立の回避」「福音による勇気」、
そして日本の教会で語られない奇跡について
日本の牧師なら誰もがこんな場面を経験しているのではないでしょうか。
礼拝後、ある信徒が普段より少し堅い態度で近づき、静かにこう言います。「先生、今日が私にとってここでの最後の日曜です。」牧師は驚いて言葉を失います。「どうしてですか? 何かあったのですか?」そして、ゆっくりと重い塊のように降りかかる答えが返ってきます。「実は、数年前にある出来事があって、それがずっと心に重くのしかかっていたんです……」
数年前。
その問題は、何年も静かにそこに潜んでいたのです。誰にも打ち明けられず、牧師にも相談されず、関係者と向き合って解決されることもなく、ただ一人で背負い続け、その重荷が耐え難くなり、去ることだけが唯一の選択肢だと感じるまでです。牧師は本能的にこう尋ねたくなるでしょう。「なぜ、もっと早く話してくれなかったのですか?」しかし、その問いに対する正直な答えは、単なる人間関係や誤解といった表面的な問題よりもはるかに深いところにあります。それは、福音によって形作られるとはどういうことか、という核心に迫るものなのです。
「回避の文化」と「追い求める神」
日本の文化は、調和を重んじ、波風を立てず、自分や他人の面子を保つことを極めて重要視します。それ自体は悪いことではありません。しかし、それが教会での対立の対処法そのものになると、静かに破壊的な結果が生まれます。それは、問題が決して言語化されず、傷が癒されることなく、人々が声を上げるよりも姿を消してしまうような共同体です。
ヤコブの手紙4章は、この力学を驚くほど率直に指摘しています。「世と友となりたいと思うものは誰でも、自分を神の敵としているのです」と彼は記しています。ここでの「友」という言葉は、単に文化を楽しんだり社会に関わったりすることを意味するものではありません。それは、福音よりも、私たちを取り巻く世の価値観、前提、本能に、私たちの心や選択を支配させてしまうことを意味します。文化が「調和はどんな犠牲を払っても守らなければならない」と説くので、壊れた人間関係に向き合うことを避ける日本の信者は、ただ「日本人らしく」振る舞っているだけではありません。ヤコブ書の言葉で言えば、その人は「世の友」となっているのです。福音があるべき場所に、文化的価値観が入り込んでしまったのです。その人の行動を駆り立てる知恵は、ヤコブが言うように「上からの」ものではありません。それは地上のものです。霊的なものではありません。そして、これに異議を唱えなければ、それは守ろうとしていた共同体そのものを、静かに解体してしまうでしょう。
その矛盾は極めて大きなものがあります。聖書の中心となる物語は、回避の物語ではありません。それは追求の物語です。神は、ご自身と人類との間の壊れた関係から目を背けることはありません。神は、私たちが神のもとに来て、自分たちの都合で問題を解決するのを待っているわけではありません。神はあらゆる障壁を越え、あらゆる代償を払い、私たちに向かって歩み寄ってくださるのです。十字架は、たとえすべてを失うことになっても、壊れた関係をそのままにしておかないという、究極の行為なのです。
これこそが福音です。そして福音は、私たちにこの文化とは異なる生き方を求めます。
回避が明らかにすること
ヤコブの手紙4章は、私たちがなぜ対立を避けるのかについて、不快なほど正直に語っています。問題は、実際には相手や状況にあるのではありません。問題は、私たち自身の心の中で起きていることです。私たちが避けるのは、恐れているからです。相手の言うこと、弱く見られること、そして必死に維持してきた調和が乱されることを恐れているのです。私たちが回避するのは、安らぎや承認を偶像として崇めており、対立に直面することがそれらを危険にさらすように感じるからです。
しかし、回避は中立ではありません。回避は選択です。そしてそれは、時が経つにつれて、私たちが望んでいたこととは正反対の結果を生み出す選択なのです。私たちが守ろうとしていた調和はいずれにせよ消えてしまいますが、今やそれは密かに閉ざされた扉の向こうで、修復の機会もなく消え去ってしまうのです。一言も残さずに去っていくメンバー、決して癒されることのなかった傷、徐々に冷めていった関係――これらは、天からの知恵の結実ではありません。これらは、十字架よりも文化によって形作られている心の結実なのです。
もし福音が本当に私たちの心の中で働いているなら、それは異なるものを生み出すでしょう。それは、踏み出す勇気を生み出すのです。それは恐れがないということではなく、恐れがあるにもかかわらず、相手に向かって歩み出そうとする意志です。なぜなら、私たちの安らぎよりも関係性が大切であり、偽りの平和を維持することよりも、関係の回復の方が重要だからです。
私たちが祝っていない最大の奇跡
私たちは、教会で何を祝っているのかについて、率直に語り合う必要があります。
誰かが肉体的な癒やしを受けたとき、私たちは大声で神を賛美します。経済的な重荷が突然取り除かれたとき、私たちは立ち上がって証しをします。それは当然のことです。神は癒す方であり、必要を満たす方であり、そうした瞬間に喜びを覚えることに何ら間違いはありません。しかし、私たちが何を祝うかで何が明らかにされているかについては、正直になりましょう。もし私たちが最も目立つ形で取り上げる証しが、常に身体の癒やしや経済的な回復に関するものであったり、一方で自分たちのコミュニティー内で起きている、あるいは起きなかった人間関係の奇跡については沈黙しているなら、私たちの本質があらわにされているのです。つまり神の力に対する私たちの実際の理解が、依然として周囲の世界が重視するもの――健康、繁栄、目に見える成功――に大きく形作られていることが露呈されているのです。
考えてみてください。去ろうとしていた会員が神の恵みによって留まり、対立に立ち向かうことを決心した事実を教会が共に祝ったのはいつだったか。 あるいは破綻寸前だった関係が、率直な告白と大きな犠牲を伴う赦しによって修復されたこと、困難から逃げるのではなく、あえてそれに立ち向かうことを選んだという事実を祝ったのはいつでしたか? こういった瞬間は、外から見れば静かで目立たないものです。しかし、それらは、私たちが祝うことに慣れている多くの奇跡よりも、神の御霊によるもっと深く、もっと希少な働きを表しているのかもしれません。回避の文化に形作られてきた人が、より困難で、福音に則った和解の道を選ぶには、恵みの奇跡によるしか他に方法はありません。実際、それ以上が必要かもしれません。なぜなら、それは彼らの育った背景、本能、そして文化が「そうするな」と告げているすべてに真っ向から逆らう行為だからです。私たちが教会で何を祝うかは、私たちが実際にどのような福音を信じているかを明らかにします。そして、もし人間関係の回復が私たちの証しの中に決して登場しないのであれば、私たちは聖書が私たちに語れと命じているものよりも、ずっと小さく、不完全な神の力の物語を語っていることになるのかもしれないのです。
教会の召命:和解の文化を育むこと
現代の日本における教会の最も重要でありながら、最も軽視されている使命の一つは、赦し、率直なコミュニケーション、そして福音に根ざした対立解決の文化を意図的に育むことです。これは自動的に起こるものではありません。意図的なリーダーシップ、忍耐強い教え、そして牧師や指導者自身がその模範となる意志が必要です。
現代の日本のクリスチャン、とりわけ教会の指導者たちは、この働きを真剣に受け止める必要があります。それは、対立が望ましいからではなく、そうしなければ、表面上は調和しているように見えても、その下では静かに亀裂が入っていく共同体になってしまうからです。「最後の日曜日」の会話は、時折起こる牧会上の例外的な出来事ではありません。多くの日本の牧師にとって、それは馴染み深いパターンなのです。そして、そのパターンを変える唯一の方法は、一つひとつの率直な対話を通じて、文化を変えていくことです。
これは、対立が共同体の敵ではないことを会衆に教えることです。対立は、福音の共同体が形成され、試される主な場面の一つなのです。むしろ、それは人々が抱える苦悩が教会を去る理由となる前に、牧師や兄弟姉妹に打ち明けられるような、十分な安心感を作り出す機会です。マタイによる福音書18章を、抽象的な教会戒規の手続きとしてではなく、愛する人々を追い求めるための生きた牧会的道筋として説教することです。教会の先頭に立って告白と悔い改めの模範を示すことです。そうすることで、会衆は、これらが弱さの表れではなく、福音による成熟の証であることを学ぶのです。
福音には勇気が求められる:そのプロセスは実際にどのようなものか
マタイによる福音書第18章と5章において、イエスは和解の第一歩を踏み出す責任を、対立する双方に負わせています。あなたが被害を受けた側であれ、過ちを犯した側であれ、その呼びかけは同じです。「先に歩み出せ」と言われているのです。マタイ5章で、イエスは、もし兄弟姉妹が自分に恨みをもっていることを思い出したなら、供え物を祭壇に置いて立ち去れ、と語っています。マタイ18章では、もし兄弟姉妹があなたに対して罪を犯したなら、その人のところへ行きなさい、と語っています。どちらの箇所でも、その働きかけの方向性は異なりますが、命令は同じです。「行きなさい」なのです。あなたが加害者であれ被害者であれ、福音はあなたに相手の方へと歩み寄るよう迫ります。
そして、イエスはその方法について具体的に示しています。まず二人きりで、内密に話し合うこと。これは相手の尊厳を守り、対立の輪を可能な限り小さく保つためです。イエスが明確に述べているように、その目的は議論に勝つことでも、自分の正しさを証明することでもありません。目的は、兄弟姉妹を取り戻すことです。この一言が、プロセス全体の見方を一変させます。私たちは自分の主張を証明しようとしているのではありません。関係が修復されることを望んでいるから、そして相手は追求する価値がある存在だと信じているからこそ、私たちは相手に向かうのです。
もしその最初の対話で解決に至らないなら、イエスは一人か二人を連れてくるように言われます。それは相手に対する告発を固めるためではなく、双方がより明確に聞き、聞かれるのを助けられる、信頼できる牧会的存在として連れてくるのです。そして、それでも解決しない場合は、その件を教会に持ち込みます。この最終段階においても、目標は変わりません。それは罰でも、排除でもなく、回復なのです。
このプロセスは複雑ではありません。しかし、問題を避けることが当たり前となっている文化の中では、大きな代償を伴います。それは、自分の安らぎよりもその関係を大切にし、正直に向き合うことによる不快感は、未解決の対立がもたらす緩やかな死よりもはるかに害が少ないと信じるよう私たちに求めているのですから。
ケン・サンデは著書『The Peacemaker』の中で、ようやくその勇気を見出した時に、その最初の対話がどのようなものになるかについて、実践的な指針を示しています。彼はこれを「告白の7つのA」と呼んでいます。それは、影響を受けたすべての人に語りかけること(Addressing)、責任を静かに転嫁してしまう「もし」「しかし」「もしかして」といった言葉を避けること(Avoiding)、具体的に何が間違っていたかを認めること(Admitting)、相手に与えた傷を認めること(Acknowledging)、その結果を受け入れること(Accepting)、具体的な計画をもって行動を改めること(Altering)、そして単に謝罪を告げるのではなく、赦しを求めること(Asking)です。この7つのステップは、単なる常套句ではありません。これらは、物事がうまくいくための具体的な形であり、勇気だけでなく、真の謙遜と福音に基づく誠実さをもって相手に歩み寄る姿そのものです。
私たちが本当に祈っていること
伝道と成長は、教会開拓者としての私たちの召命の核心であり、私たちは全力を尽くしてそれらに向けて祈り、働き続けなければなりません。しかし、それらに加えて私たちが捧げるべき、最も緊急でありながら見過ごされがちな祈りの一つは、おそらく以下のようなものでしょう。「主よ、互いに正直に向き合う勇気を与えてください。人々が静かに姿を消すのではなく、留まり、困難な事柄を乗り越えていくような共同体をください。私たちが率先して行動し、完全に告白し、心から赦し、たとえ代償を払うことになっても和解を追求する恵みを与えてください」
なぜなら、人々が対立に直面しても留まることを選ぶ教会こそ、福音が目に見えて力強く働いている教会だからです。それは、周囲の、日本を含むこの世界が、これまでほとんど目にしたことのない共同体です。そして、それは私たちが示しうる、イエス・キリストの和解の力に対する最も説得力のある証の一つとなるでしょう。
伝道と教会の成長を祈ることは、重要であるだけでなく緊急の課題であり、決してやめるべきではありません。しかし、そうした祈りと並んで、効果的な伝道における最も強力でありながら見過ごされがちな鍵は、周囲の世界とは目に見えて際立って異なる共同体を築くことかもしれません。イエスは弟子たちを「世の光」であり、「山の上にある町」と呼びました。人々が正直に葛藤に向き合い、勇気をもって赦し合い、静かに姿を消すのではなく、互いに支え合う共同体は、まさにそのような場所です。それは、表面的な調和と静かな引きこもりを文化とする日本の社会が、これまでほとんど目にしたことのない共同体です。教会が、真の和解を見出せること、壊れた関係が修復できること、人々が留まり、最も困難なことを共に乗り越えていけることを示すとき、それはどんなプログラムや伝道戦略でも生み出せない証となるのです。私たちの関係の中に現れる福音こそが、私たちにとって最も説得力のある弁証となるのかもしれないのです。
神は御子という代価を払ってまで私たちを追い求めてくださいました。その愛を真に体験し、神が私たちと神との間の断絶を修復するためにあらゆる障壁を越え、あらゆる代価を背負ってくださったことを知る、それは私たちの恐れのもっとも深い根源が取り除かれることなのです。拒絶されることへの恐れ、関係が乱されることへの恐れ、正直であることがもたらす代償への恐れ――私たちがすでに完全に知られ、完全に愛されていると知る時、そのような恐れはすべて、力を失い始めます。そしてその愛が、神ご自身が傷ついた私たちにさえ歩み寄ってくださるほどに力強い愛ならば、それはきっと、傷ついた兄弟姉妹へと歩み寄る勇気を私たちにも与えてくれるはずです。
実践的なストーリー
拓也は、教会のリーダーたちが決定したある方針に対し、強い違和感を抱いていました。これまでの彼だったら波風を立てないことを「大人な対応」だと自分に言い聞かせ、沈黙を守っていました。しかし、沈黙して距離を置くことは、自分を自分たらしめる「経験や体感」を押し殺すことでもあり、結果として自分にも教会にも益にならない「冷戦状態」を招くことになるのではないかと葛藤した彼は思いきってリーダーと話をすることにしました。
ミーティングの直前、彼は自分自身にこう言い聞かせました。「リーダーもまた主イエスを心から愛しているし、彼らなりの歩みの中で培った経験や体感があるはずだ。自分自身の感覚が大切であるように、相手のそれにも同じように価値があるのかもしれない」。そして、自分が抱いている違和感や「正しさ」も、あくまで限られた視点からのものに過ぎないことを自覚しようと努めました。
実際に対話が始まると、感情的にならずに自分の経験と違和感を率直に伝える作業は思った以上に緊張感と労力を伴いました。相手からの反論もあり、結果として方針が即座に変わることはなく、拓也自身にも不全感が残りました。この程度の結果なら「わざわざ対話などしなければよかったのではないか」という徒労感が残ったほどでした。
しかし大切なのは、拓也が「逃避」も「攻撃」も選ばなかったことでした。問題を即座に解決して決着をつけようともしませんでした。代わりに、自分と相手との違いの間にある溝についてまずは客観的に見てみようと思えたことが、彼にとって福音から始まった新しい視点でした。一見、彼の日常や教会生活にはそれほど劇的な変化は見られません。ただこの地味で、時に不快でさえあるプロセスが彼の中にこれまでにない視点を生み出すなら、その先に福音的な和解の可能性が見えてくるのかもしれないのです。
著者:CTCJ共同執筆チーム
2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。
