ソーシャルメディア:物語の戦い

English version is here.

人が創造されてまだ間もない頃、エバは蛇が投稿したとても美しい木を目にしました。その投稿のキャプションはこうです。「こんなに素晴らしいものが間違っているなんてあり得る? #本当に神がそう言ったの?  #神は善なの?」エバは気づかないうちに禁断の果実を食べ、それを夫に与えてしまいました。

エバは自分の現実を、つまり、目にするもの、耳にするもの、触れるものを解釈します。彼女がどう解釈するかが、彼女の感情、信念、行動を決定します。

想像してみてください。力強い表現のテキスト、画像、動画で構成された投稿やストーリーが、1つや2つではなく、何千とあり、私たちの好みやフォロワーに合わせて厳選され、24時間365日、解釈のために利用可能なのです。私たちがSNSをチェックするたびにそういったポストを解釈し、その解釈に従って生きるための新たな物語が脳内にダウンロードされます。しかもそのほとんどが他人の人生のハイライトで構成されているのです。これほど混乱することが他にあるでしょうか?

理想のスタイル、美しさ、幸せとはどのようなものか、無言で叫んでいるような同じような投稿を毎日目にして吸収していると、無意識のうちにその基準を満たさない自分は価値がないという解釈をするようになります。

自分が独身だったり、パンデミックで仕事を解雇されたばかりだ、という時に友人の結婚や昇進の投稿を目にすると、そのストーリーをあたかも自分が人生に遅れをとっているかのように解釈してしまいます。

教会の仲良しグループがあなたを招待せずに集まっている投稿を見つけたら、孤独感や疎外感、忘れられていると感じるかもしれません。でもそんな自分の気持ちを整理する間もなくミリ秒刻みで次の投稿にスワイプします。

ソーシャルメディアにアクセスするたびに、私たちは物語(ナラティブ)との戦いに身を投じているのです。それは聖書が語る自分と、世間が信じ込ませようとする自分の価値がどこにあるのかを探る戦いです。

ソーシャルメディアの雑然さや、私たちの幸福に悪影響があるという研究結果があるにもかかわらず、私たちはソーシャルメディアを愛しています。

なぜ、あれほど悪影響を与えるようなことが、そこまで魅力的に感じられるのでしょう? 

ソーシャルメディアは、私たちが切望するドーパミンを上昇させます。「いいね」をたくさんもらったり、素敵なコメントを読んだりすると、私たちの「つながりたい」「認められたい」という欲求は潜在意識下でくすぐられます。

ソーシャルメディアは、私たちが隠れる場所を簡単に提供します。アダムとエバが罪の意識から裸体を隠すためにイチジクの葉で腰布を縫ったように、私たちは自分の人生のハイライトをコラージュして、自分の至らなさや不安を覆い隠します。

ソーシャルメディアは私たちの空想を満たしてくれます。 私たちが経験したいと願う肯定的なシナリオを見せてくれる視点のコンテンツから、私たちの代わりに私たちが夢見るような生活を送っているインフルエンサーの写真まで、ソーシャルメディアは自分の人生で処理できていない痛みや失望に、一瞬だけ鎮痛剤を提供してくれます。 しかしログオフすると痛みは再び戻ってきます。しかもそれを私たちは知っているのです。

同じ古い混乱

ソーシャルメディアの混乱は目新しいものではありません。

カインは、弟のアベルが得たような称賛を得られなかったことに打ちのめされたと感じました。ヨセフの兄弟たちは、ヨセフが多くの色で彩られた衣をまとっている投稿を目にして羨望の念を抱きました。サウルは、ダビデの祝賀の投稿がフィードに溢れることに不安を感じました。90年近くにわたって、子供たちと過ごす女性たちの投稿を延々と見てきたサラは、いらだちを募らせ、ハガルとの間に子供をもうけるようアブラハムに頼みました。

つまりこういうことではないでしょうか? 人々はソーシャルメディア上にバベルの塔を築き、自分たちの名を広めようとしています。 人々はソドムの時代のように、この公共の場で誇らしげに罪を祝っています。 人々は闇の中で互いを欺いています。ヤコブが闇の中で父イサクを欺き、ラバンが闇の中でレアをラケルとすり替えたように。

風景さえ似ています。神の民として新たに誕生した国は、12の異なる情報源から約束の地に関するニュースを入手したことで、混乱しました。洗礼者ヨハネは、ヘロデ王の家族に関する無神経な発言をしたことで、命を奪われました。トレンドのトピック #jesusismessiah(#イエスはメシア)はすぐに忘れ去られ、信奉者たちは十字架のスキャンダルにより、数日のうちに姿を消しました。

ソーシャルメディアは、以前と同じように混乱を招いていますが、より大きく、より速く、より巧妙になっています。ソーシャルメディアは新たな問題を生み出すわけではありません。堕落以来、人々の心の中にあるものを拡大するだけです。その問題とは、真の物語の喪失です。この問題に対して、聖書は一つの解決策を提示しています。救い主です。

私たちに必要な物語

私たちは本当は何者なのでしょうか? 私たちはどのようにして自分自身のアイデンティティや価値を定義するのでしょうか? 私たちはどのような物語を信じるのでしょうか?

不安や承認欲求を超えて、聖書は私たちに「私たちは罪人である」と告げています。罪深い心は、あらゆる善の源から私たちを遠ざけます。さまよう心は、絶望的な場所に意味やアイデンティティを求めます。邪悪な心は、互いに傷つけ合うよう私たちを導き、人生にさらなる苦悩をもたらします。さらに悪いことに、家族、教育、医療、政府、ソーシャルメディアに至るまで、あらゆるシステムが機能不全に陥り、私たちの苦悩はさらに深まるのです。

罪人ばかりのこの壊れた世界に、神は新しい物語を示しています。それは私たちの暗闇の中でイエスが私たちの罪のために死なれ、私たちの壊れた心を贖ってくださったこと。 無条件の愛の表現として、私たちがまだ罪人であった時に、私たちのために死んでくださったこと。 最後まで私たちを守り続けるという完全な安心を保証する約束をしてくださったこと。 私たちを神の子として受け入れてくださったこと。 イエスによって、私たちは贖われ、愛され、受け入れられ、そして安全なのです。

これが私たちに必要な物語です。これが世界に必要な物語です。私たちは他者の「いいね」や肯定をこれ以上必要としません。私たちは優しいコメントや慰めをこれ以上必要としません。私たちに必要なのは贖いなのです。私たちが不安になるという症状として出る問題は、私たちの罪です。そしてイエス・キリストこそがそういった問題に解決をもたらします。私たちを本当に愛し、私たちの物語を書き記してくださった救い主がおられるということを知らなければ、いつ戦いに臨んだとしても私たちは物語の戦いに敗れます。

ここから出発して、私たちはどのように対応すればよいのでしょうか?

ソーシャルメディアに何かを投稿するならその前に自分がどのような物語を伝えているのかを考えてみましょう。私たちは、すでに騒々しい世界にさらに雑音を加えているだけなのでしょうか? 

アカウントをフォローする前に、そのアカウントが私たちに解釈させるために発信している物語について考えてみましょう。そのアカウントは、私たちがすでに苦戦している戦いをもっと激しくすることにならないでしょうか?

ソーシャルメディアのフィードをチェックする前に、自分がどれほど冷静であるかを振り返ってみましょう。今この時、さらに多くの物語をダウンロードするのにふさわしい時でしょうか? もしかして不安を癒す薬としてそれを利用しているのでしょうか?


まさに使徒ペテロの言葉通りです。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき相手を捜し求めながら歩き回って(1ペテロ5:8)」いるのですから。

(本記事はGospel City Networkに掲載されたものを許可を得て翻訳、転載したものです。https://gospelcitynetwork.com/2022/08/11/social-media-a-battle-of-narrative/

著者:ジェヴォン・ガサリ プロフィールはこちら