私たちが見ようとしない「根」

English version is here.

「本”根”」を見せない・見られない私たち

(偶像礼拝、日本の教会、そして私たちに必要なリバイバル)


日本には、誰もが尊敬しつつも、誰もその正体を本当に知らない、ある種の牧師がいます。彼は忠実に説教し、病人を訪ね、苦しむ人々に助言します。「先生」と呼ばれ、その肩書きの重みが、指導のあり方すべてを形作ってしまいます 。そしておそらく最も危険なのは、彼自身の内面について、どれほど正直でいられるかまで制限されてしまう点です。

これは批判ではありません。むしろ文化が仕掛けた罠についての観察であり、その罠を解くことができるのは唯一福音なのです。

行動の深層

日本の「恥」と「名誉」の文化は、偶像礼拝を特定の方向へと形作ってしまいました。社会的役割や公けの振る舞いと価値観が密接に結びついている文化で、人の心は自然と「承認」と「恥」への恐れへと傾いていきます。人が有能で一貫した道徳観をもち、非難の余地がないように見られなければいけないと考えるのは、単にそういう性格だからではありません。むしろ文化的な生存メカニズムなのです。そして、その必要性が、究極的なものとしてその人の価値観を占めるようになると、それは偶像となります。

だからこそ聖書に見られる偶像礼拝の概念は非常に不快でありながらも必要不可欠な概念なのです。というのも偶像礼拝は、像の前にひれ伏す異教徒に限られた問題ではないからです。リチャード・キーズが書いているように、それは「教養ある人々の心と精神の中」に見出され、人生の周辺部ではなく「中心舞台」に存在します。そして日本の教会でも、実は最も誠実と見える日常の陰に潜んでいるのです。

ここでは氷山のイメージが役立ちます。水面上に浮かんでいるのは、目に見える罪や葛藤つまり、私たちが責任を問われる場面で、多かれ少なかれ告白する行動です。しかし、水面下には、目に見えず、はるかに強力なものが潜んでいます。それは、ティム・ケラーとデービッド・ポーリソンが「根源的な偶像」と呼ぶものです。すなわち、あらゆる表層的な行動を駆り立てる、堕落した心の四つの根本的な欲望です。

承認:愛され、受け入れられるという欲求。

快適さ:苦痛や要求を避けたいという欲求。

支配:自分の環境や結果を掌握したいという欲求。

権力:重要性と影響力を得たいという欲求。

誰にでも、これらの一つが、自分を支配する根源的な偶像として機能しています。それは、最も根深い葛藤の根底にある原動力であり、脅かされた時に、状況の深刻さをはるかに超える激しい反応を引き起こすものです。

「先生」文化が隠しているもの

日本の牧会文化の悲劇は、その牧師たちが偽善者であるということではありません。そんな人は滅多にいません。悲劇なのは、その文化的枠組みによって、彼らを実際に動かしているものが何かを見極めることがほぼ不可能になっていることです。

承認が支配的な偶像である牧師にとって、「先生」という役割は、充実感と恐怖を同時に感じさせるものでしょう。その肩書きに伴う名誉が、この偶像を育てます。そして会衆を失望させる可能性、つまり、失敗していると見られる可能性がすべてを支配します。それが牧師に何を説教し、何を避けるかを決めさせます。時が経つにつれ、公的な自分と私的な自分の間の溝は広がり、たとえ望んだとしても、それを埋めることができなくなってしまいます。

快適さを何よりも重視する牧師は、物事が順調な時期には温かく親しみやすい態度を見せます。しかし牧会の負担が大きくなると、ひっそりと姿を消してしまいます。難しい対話を避け、厳しい決断を先延ばしにし、まさにコミュニティが彼に一歩踏み出してほしいと最も必要としている時に限って、身を引く理由を見つけるのです。確かに彼には境界線がありますが、それは知恵や誠実な思いやりによるものではなく、あくまで自身の心の平安を求める欲求に基づいて設定されたものです。周囲の人々は彼から露骨な冷たさを感じるよりも、むしろその不在を痛感します。追い払われるわけではないのです。ただ、彼らに手を差し伸べるのに代償が伴う時、この牧師から積極的にアプローチされることがないだけなのです。

支配を最大の偶像とする牧師は、規律正しく印象的なミニストリーを築き上げますが、聖霊が予期せぬ方向へと導く時には苦戦することになります。権限の委譲は危険に感じられ、弱さをさらけ出すことは耐え難いものとなるのです。

権力を主な偶像とする牧師は、目に見える成果を上げはしても、そのチームは密かに自分たちは「使い捨て」要員だと感じるようになります。誰かが牧師の権威に異議を唱えたとき、その反応は度を越したものになり、周囲の人々を混乱させ、傷つけることになります。


いずれの場合も、その偶像は、外から見れば忠実な奉仕のように見えるものの、その表面下でうごめいています。そして、「先生」という役割を取り巻く「恥と名誉」の枠組みには、それを表面化させる仕組みがありません。むしろその逆で、隠蔽を積極的に奨励しているのです。

私たちに必要な診断

これこそが、偶像礼拝という概念が日本の教会にとって脅威であると同時に不可欠な理由です。

脅威であるのは、自らの根源的な偶像を診断するということが、目に見える忠実さの根底に依然として神以外の何かに大きく支配された心が横たわっていることを認めることになるからです。「先生」という理想の上にアイデンティティを築いている牧師にとって、これは決して単純な告白ではありません。それは解体作業なのです。

不可欠である理由は、これなしには真の変化は何も起こらないからです。根底にある偶像には手を触れず、表面的な行動だけに対処するのは、雑草の茎だけを刈り取るようなものです。根っこが全く手つかずのままであるため、同じパターンが、同じか異なる形で再び現れることになるでしょう。

エゼキエル書14章が明らかにしているように、私たちは「自分たちの偶像を心の中に秘めて」いる状態で宗教的指導者として振る舞うことは十分にあり得るのです。神に尋ねようと訪れた長老たちは、根本的に別のところにその心が向いていたのです。彼らは神を求めていると信じていましたが、実際はそうではありませんでした。

唯一の脱出路

トーマス・チャルマーズは、その有名な説教の中で、古い愛着から心を追い出すことはできないと論じました。それは、新しく、より魅力的な愛着によってのみ置き換えられるのです。偶像がその支配力を失うのは、意志の力や道徳的な努力によるのではなく、心が偶像そのものよりも美しく、より満足感があり、より究極的な何かに出会った時なのです。

だからこそ、福音は解決策の一部に過ぎないのではありません。福音こそが唯一の解決策なのなのです。Iコリント611節にある三つの現実――洗われ、聖なる者とされ、義と認められた――は、道徳的な達成を記述したものではありません。それらは、聖書が率直に述べているように、まさにそのリストに挙げられたような人々のために、キリストがすでに成し遂げてくださったことを宣言するものです。

承認」という偶像に対して:あなたはすでに、最終的に唯一重要な意見を持つ方によって、選ばれ、尊い者と宣言されています。

快適さ」という偶像に対して:あなたが逃げている恥や汚れは、完全に取り除かれています。あなたが求めている安らぎは、すでに確保されています。

支配」という偶像に対して:あなたはすでに義と宣言されています。つまりそれはあなたが結果を管理したからではなく、あなたのために別の誰かが歩んだ完全な生涯によるものです。

権力」という偶像については:この世が提供するいかなるものをも凌駕する栄光が、すでにあなたに、無償で、相続できるものとして与えられています。

これこそが、新しい愛がもたらす排出力です。日本の教会の偶像は、それらについてさらに説教をしても追い出されることはないでしょう。キリストの美しさが個人的に現実そのものとなり、それに比べれば偶像が色あせて見えるようになった時に初めて、その偶像は追い出されるのです。

私たちに真に必要なリバイバル

日本の教会にはリバイバルが必要です。ですが、より優れたプログラムや、より印象的なミニストリーによってもたらされるようなリバイバルではありません。神の民が、真に、完全に、そして心から神に立ち返るときに始まる、そのようなリバイバルです。

そして、私が教会史を読む限り、そのようなリバイバルは常に、偶像礼拝が要求するまさにその種の、痛みを伴う率直な自己点検から始まってきました。それは、指導者たちが「演技」をやめ、「告白」し始めたときに始まります。

「先生」が、道徳的な模範としてではなく、福音が絶えず必要な者として知られることを厭わなくなった時です。公的な自分と私的な自分の間の隔たりが埋まる時――それは、私的な自分がようやく人前に出られるほどに聖められたからではなく、福音によって、正直でいられるほど安全な共同体が築かれたからです。

「先生」文化は、牧師になる前に模範でなければならないと語ります。しかし福音は、それとは異なることを告げています。他者を真に医師のもとへ導く前に、まず自分自身が患者でなければならないのです。それは脅威となる発見ではありません。それはこの世で最も人を解放する気づきなのです。

(参考文献:ティモシー・ケラー『偽りの神々』;デービッド・ポーリソン「心の偶像と虚栄の市」、『Journal of Biblical Counselling 1995年);リチャード・リンツ『アイデンティティと偶像崇拝』(IVP2015年);リチャード・キーズ「偶像工場」;トーマス・チャルマーズ『新しい愛着の排他的な力』;スティーブ・チルダーズ;およびコリント人への手紙第一69-11節。)

実践的ストーリー

田中牧師は、先日の役員会を振り返っていました。若手リーダーのカイトから教会の方針について鋭い指摘を受けた瞬間、自己防衛したい衝動や「自分のリーダーシップが否定された」という怒りを感じました。以前の彼なら、こういった感情の反応を「教会のための熱意」とすり替え、強引にあるいは巧みに議論を収束させていたかもしれません。しかし、先日仲間たちと話し合った「偶像は本来良いものであるが、自分が神の代わりに過度に依存するもの。また、単体ではなく、複雑に絡み合っている」という議論がふと思い出されました。

役員会での自分の反応を正直に探ると、表層に「議論をコントロールしたい」という支配欲があったのはすぐに分かりました。しかし、その奥には「リーダーとして認められたい」という承認欲求があり、さらに深層には「面倒な対立や変化を避け、楽な関係でいたい」という快適さへの逃避が重なっていました。またその全てが実は「牧師とはこういうものだ」というイメージを演じて何とかリーダーとしての権力を行使したいという思いがあったことにも気づき始めました。

そんなある時、田中牧師は一緒に椅子を片付けていたカイトにふと声をかけました。「カイト君、僕は先日の役員会で議論した時、君の意見を十分に受け止められてなかったと思うんだ。皆の意見を冷静に聞く余裕が、あの時の自分にはなかったと思う。申し訳なかったね」。牧師の声のトーンがいつもより自然体に感じられたカイトは戸惑い、「……いえ、大丈夫ですよ、先生。僕も、ちょっと先走りすぎてたかもしれません」と軽く受け流してしまいました。

もしこの後、カイトにも自分の内面を取り扱う機会があったら、その先に気づくことがあるかもしれません。田中牧師を「失敗を許されない聖人」としてどこかで祀り上げる、つまり牧師を特別視し、完璧であることを期待していたこと。またそれは、先生文化が強い日本という環境で「牧師偶像化」の風潮に、カイト自身が無意識に加担していたということかもしれません。さらに自分の内面にある弱さの傾向から、強いリーダーに認めてほしいという承認欲求や、完璧なリーダーのもとで自分は責任を負わずに済むという快適さ、あるいはリーダーが持つ権力を自分も手に入れたいという支配欲が見えてくるかもしれません。

一方で、田中牧師も偶像を認識するだけでなく、そこに福音がどう健全に据えられるのかについて日常レベルで考え、信頼できる仲間と話し続ける必要があるでしょう。

二人の会話で何かが劇的に解決したわけではありません。ただそれは、「先生」と「若手リーダー」という、ともすると対立しやすい構造に流れがちな二人が、同じ会堂で椅子を片付けながら、互いに「福音を必要としている人間」として、歩み寄れるかもしれない――そういう未来を予感させる瞬間でもありました。


著者:CTCJ共同執筆チーム 

2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。