悔い改め、その変革的な力

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悔い改めは、罪悪感や恥の感情を呼び起こす言葉ですが、クリスチャンの生活において不可欠な要素です。では、なぜ多くのクリスチャンは、悔い改めをキリストとの日々の生活の一部として自然に受け入れることが難しいのでしょうか? 

おそらく、私たちはそれを祝福ではなく、負担として捉えているからかもしれません。しかし、聖書によると、悔い改めは単なる任務ではなく、神の恵みの豊かさを体験する変革の旅なのです。悔い改めの本当の性質を理解すると、私たちは神と他者とのより深い交わりへと導かれ、神の愛の光の中に步むようになります。

この記事では、クリスチャン人生における悔い改めの意義を考察し、一般的な誤解を解き明かし、福音に基づく悔い改めの理解と実践のための枠組みを提供します。「人生の全てが悔い改めである」という現実を受け入れると、私たちは救い主とのより豊かで本物の関係へと導かれます。

クリスチャンの人生における悔い改めの価値

1. クリスチャンの人生の全てが悔い改め

悔い改めは単なる一回限りの行為ではなく、クリスチャン人生の経験全てを含みます。イエスは、マルコ1章14-15節に記録されているように、明確な招きをもって回心を呼びかけました。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』」ここで「回心」と訳されたギリシャ語は、現在分詞であり、継続的なプロセス、つまり回心し続けることを意味しています。

マルティン・ルターはそれを次のように要約しました。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの生涯であることを意図された。」つまり、悔い改めとは信仰を持つ時や、最も重大な罪に対するものだという考えに挑戦しているのです。むしろ悔い改めとは、私たちを神の恵みに依り頼むような謙虚な姿勢へと招くものなのです。

人生のあらゆる側面で悔い改めを必要としていると私たちが認める時、それが私たちの神との関係と、私たちに神のあわれみがどれだけ必要か、ということが深く結びついていることが明確になります。ベルギー信仰告白が述べるように、真のキリスト者の特徴は、信仰があること、また「罪から逃れ、義を追求する」ことです。この罪から離れ、神に向かい続ける姿勢は、活力あるクリスチャン生活の特徵です。

2. 悔い改めは従うべき命令です

悔い改めは単に自由に行う行為ではなく神からの命令です。使徒の働き2章37-38節で、ペテロがペンテコステの群衆に語りかけた後、彼らは「心を刺され」こう問いかけます。「兄弟たち、私たちは、どうしたらよいでしょうか?」ペテロは答えます。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」 

この悔い改めへの呼びかけは、キリスト教信仰における悔い改めの重要性を示しています。それは単なる提案ではありません。救われること、また私たちのうちに聖霊が住んでくださることを受け入れるようにという神の命令です。しかし、多くの信徒は悔い改めを命令として受け入れることを難しいと感じます。特に、責任をとることよりも自己正当化を優先する文化では、悔い改めを罪や恥と結びつけると重荷のように感じられるからです。

私たちが思い出さなければならないのは、悔い改めが神の恵みに根ざしていることです。それは単に私たちの失敗を認めるというものだけでなく、神が私たちに与えてくださる愛と恵みを認識することです。この視点から悔い改めを見ると、私たちの欠点に焦点を当てるのではなく、神が私たちと交わりたいと願っていることに焦点を当てるものとなります。

3. 悔い改めは受け取るべき贈り物です

私たちの霊的成長にとって不可欠なのは、悔い改めを罰ではなく贈り物として理解することです。

イザヤ書1章18節で、神は私たちにこう招かれています。「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」 この福音の核心を反映しているような招きはつまり、神は私たちを聖とし、神との正しい関係に回復させたいと望んでおられるということなのです。

しかし、多くの信徒はまた、悔い改めを贈り物として受け入れることを難しいと感じます。自分が神の恵みに値しないと感じ、自分の罪のせいで自分は赦されないと思い込んでいるかもしれません。しかし、福音の美しさは、まさに私たちの弱さと失敗の中に、神の恵みが最も輝きを放つ点にあります。パウロがコリント人への手紙第二12章9節で次のように書いています。「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」


神からの恵みの贈り物として悔い改めに向き合う時、私たちは癒しと回復を体験できます。その中で私たちは自身の罪深さとキリストの測り知れない愛に気づかせられ、神に抱きしめられる中で魂の安らぎを見出すことができるからです。

福音に導かれた悔い改めのプロセス

悔い改めの原則を理解することは重要ですが、本当の悔い改めに至るプロセスを認識することも必要です。これには、神の恵みへの心からの応答、罪の自覚、そしてそこから離れる願望が含まれます。

1. 神の性質への考察

罪の悔い改めのプロセスは、神がどんな方であるかを明確に理解することから始まります。イザヤがイザヤ書6章1-7節で主と出会った時、神の聖さと威光に打たれました:「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。」この神の栄光に満ちた姿は、神の聖さと力を明らかにし、イザヤに自身の不甲斐なさを自覚させました。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」

私たちの悔い改めの旅では、まず神の性質、つまり聖さ、愛、正義について考える必要があります。それは、神の偉大さにあって、私たちの罪がいかに重いかを理解させ、へりくだって主に立ち返るように促します。

2. 罪の重さを認める

次に、私たちは罪の現実と向き合わなければなりません。イザヤの告白「この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」は、私たちの集団的な悔い改めの必要性を示しています。罪は単なる個人的な問題ではなく、神と他者との関係に影響を及ぼします。罪の重さを認識することで、私たちは適切に悲しむことができ、本当の悔い改めへと導かれます。


コリント人への手紙第二7:10でパウロはこう書いています。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」この神に喜ばれる悲しみは、悔い改めのプロセスにおける重要な部分です。なぜなら、それは私たちの罪が自分だけでなく周囲の人々にも与える痛みを認められるようにするからです。それは、無関心から、深い悲しみと神のあわれみを必要とすることを認識するところまで私たちを導きます。


3. 福音を受け入れる

最後に、悔い改めのプロセスは福音を受け入れることで頂点に達します。神は私たちの壊れた状態に恵みを与え、希望と回復を提示します。イザヤ書6章6-7節で、セラフィムはイザヤの唇に燃える炭を触れさせ、次のように宣言します。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」 この贖いの美しい行為は、福音の核心を物語っています。つまり、神は私たちを罪の中に置き去りにせず、積極的に聖なるものとし、回復のために働かれるのです。

悔い改めが福音と密接に結びついていることを認識すると、それは私たちが一人で背負う重荷ではなく、キリストと共に歩む旅路であると理解できるようになります。私たちが罪を告白し、キリストへと向き直る時、創造主との和解という深い平和を体験します。福音は私たちに、私たちの過去が私たちを定義するのではなく、キリストの義と愛が私たちを定義することを確信させます。

罪の悔い改めの文化を育む

信徒としての私たちは個人として罪の悔い改めを実践するだけでなく、コミュニティ内に罪の悔い改めの文化を育むよう召されています。これには意図的な努力と、弱さをさらけ出す覚悟が必要です。罪を悔い改める文化は、私たち全員に神の恵みが必要だということ、また罪から離れる必要性がない人など一人もいないということを認めます。

1. リーダーシップの役割

教会やミニストリーにおいて、責任はリーダーシップから始まります。牧師や教会リーダーは、悔い改めの生活を模範とし、自身の葛藤を率直に告白し、神の恵みに頼る姿勢を示す必要があります。ジョン・オーウェンの有名な言葉にあるように、「罪を殺さなければ、罪があなたを殺す」のです。この真理を体現するリーダーは、信徒が自身の葛藤を認め、回復を求めることができる安全な環境をつくります。

2. 安全な空間の創造

悔い改めの文化を育むため、教会は告白と責任共有のための安全な空間をつくり出すべきです。これは小グループ、祈りの会、または悔い改めに焦点を当てた教会全体での集まりを通じて実現できます。そのような場で信徒は互いの重荷を分かち合い、互いに祈り、神からの赦しと罪から離れるための力を求めるよう励まし合います。

3. 神の恵みの強調

罪の悔い改めのメッセージは、神の恵みと愛に根ざしていることが不可欠です。罪を認めることは重要ですが、キリストを通して与えられる希望と癒しを強調することも必要です。このバランスは、信徒が悔い改めを喜びが失われる行為ではなく、神の御臨在の中にあるより深い喜びへの道だと理解するのを助けます。


悔い改めを喜び抱く

悔い改めは単なる義務ではありません。それは、愛する父に近づくための恵みに満ちた機会でもあります。人生の全てが悔い改めであること、それが従うべき命令であること、そしてそれが受け取るべき貴重な贈り物であることを受け入れる時、私たちは福音の変革的な力を体験する立場に立つことができます。

罪を認めることを避ける文化の中で、私たちは悔い改めの美しさを祝うコミュニティでありたいのです。つまり、恵みへの必要性を認め、他者をこの旅に招き入れるコミュニティです。神のご性質を深く理解し、罪の重さを認め、福音を抱きしめる時、私たちは単に変化するだけでなく、周囲の世界にキリストの希望を分かち合いたいと熱望するようになるでしょう。

そして、私たちの生活が本当の悔い改めの心を反映できますように。それは常に神に心を向けること、神の愛の深さを理解すること、そして聖とされていることを追求する喜びの心です。クリスチャンとしての歩みを続ける中で、それぞれの悔い改めの歩みが、私たちを完全に愛し、完全に回復することを望まれる神へと近づける歩みだということを、忘れないようにしましょう。

1ヨハネ1:9の言葉を借りれば、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」 この約束は、私たちが人生の旅路を歩む上での確信です。私たちは、悔い改めは終わりではなく、救い主とのより深い関係への始まりであることを知っています。ですから、私たちの心とコミュニティにおいて、悔い改めの文化を育み、私たちをキリストの御姿に変える恵みを受け入れることが大切なのです。


実践的なストーリー:

ある開拓教会の牧師は悔い改めの重要性を説教でも、自らの証でもオープンに語ることで知られていました。日常生活でも自分の失敗について謝ることを厭わず、教会ではリーダー自らが悔い改める姿勢を見せることについて感銘を受け、互いに悔い改めの姿勢を持つことが習慣となっていました。そのような文化が築かれ、成長していた教会なのですが、不思議なことに人間関係における対立は後を絶たず、ついにはリーダーシップ内でも大きな対立が生まれるという事態に陥りました。

確かに教会の文化として悔い改めは習慣化されていました。しかし、牧師の悔い改めの姿勢は以下のようなものでした。「すみませんでした。神様がこんな自分を赦してくれることに感謝です。あなたもそう思いませんか。でも私の傾向から言ってまた同じようなことをしてしまうかもしれません。だから赦してください。」それは罪の認識から神の赦しの恵みへの感謝はあるものの、罪から離れたいという欲求を伴うものとは言えなかったのです。

自分の弱さや失敗に常に正直であること、同時にそのような自分の罪の性質を認識する中でも、悲観的になったり、落ち込んだり、自己憐憫に陥るのではなく、神の恵みにあって自信を持つ姿勢そのものが、牧会で自然に反映されるべきであり、それこそまさに福音による悔い改めの重要な結果の一つと言えます。例えば、パウロは「使徒の中でも一番小さい者」という自己認識を持っていました。晩年には「罪人のかしら」であるという認識が深まりましたが、同時に神の恵みにある絶対的な自信が彼の中で深まっていったことは明確です。

牧会者として教会リーダーとして悔い改めのプロになることも、悔い改めの文化を教会内に築くことも可能です。しかし、福音の恵みに対する深い感謝の中で、本当の意味で、罪の現実から離れたいという、あの取税人が顔を天に向けることなく胸を打ち叩いて祈ったほどの、あるいはザアカイに「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言わしめたほどの悔い改めの最終的な結実を見るには、自分の罪が他者にも影響や痛みを与えるという深い気づきが、日常的に必要なのです。

そしてそのような気づきに呆然とさせられるような私たちの壊れた状態に、神が与えてくださる恵みによる希望と回復は、どれほどの犠牲が払われ価値があるものなのか。そのように自分の罪と神の恵みとのギャップに圧倒されるという経験を自ら体験し、本当の悔い改めを伝えていく賜物と使命が、牧会者には神から豊かに与えられているのです。

著者:CTCJ共同執筆チーム 

2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。