教会開拓ー敵か味方か

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クレアは、郊外の近くにある福音派の英国国教会のリーダーである友人と、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。その地域は、神が彼女の心に示された場所だった。

クレアは考えをまとめてから、話し始めた。この地域に移住してくる様々な人々が惹きつけられるような新しい教会のビジョンを興奮気味に語った。そしてどのようにチームを集め、この新しい取り組みについて熱心に祈らされてきたかを話した。何よりも数年前に同じ郊外にある別の教会開拓者からの肯定的な励ましの言葉について話した。女性のリーダーシップについての友人の見解はクレアの見解とは異なっていたが、友人は彼女の提案に熱意を持って応えてくれた。「素晴らしい!この地域にはイエスを伝えるべき人々がたくさんいる。今の私たちの教会には、あなたに賛同してくれる人がおそらく何人かいるはずだ」と言ってくれた。

クレアは友人の反応を聞こうと、息を整えて待った。しかし興奮を分かち合うどころか、会話にも、二人の間にも氷がバケツ一杯注がれたような空気を感じた。新しいミッションの取り組みについて共に夢を語り合う瞬間になるだろうと予想していたその時は、実際は全く異なるものになってしまった。友人は彼女と一緒に夢を語るどころか自分の教会のメンバーを彼女の教会に奪われるのではないかと心配している様子だった。口に出してこそ言わなかったが、クレアには彼が何を考えているかすぐにわかった。「羊泥棒!」

彼女の心は沈んだ。

実際に、この会話、そしてクレアは実在するものではありません。ですが、会話の感情の軌跡はあまりにもリアルです。教会を開拓するという意向を発表すると、喜びや興奮と同時に、恐れや防御的な態度で迎えられることも少なくありません。なぜなのでしょうか?

多くの既存の教会は、教会開拓を敵とみなしています。少なくともすでに人々を集めるのが難しい状況の中で、歓迎されない競争相手として見なしています。同様に、教会開拓者は、開拓に関するロマンとレトリックに流され、その優位性を誇張しすぎることがあります。ですから、健全ですでに確立された教会の効果や、霊的刷新をもたらす可能性を過小評価してしまう危険があります。

私は、教会開拓と既存の教会は敵ではなく友になれると確信しています。どちらも、どの都市でも重要な貢献をすることができます。しかし、競争意識から抜け出し、お互いをキリストの王国の働きにおける協力的なパートナーと見なすためには、一体何が必要でしょうか?

私たちは競争しているのか?

教会開拓と既存の教会との間に生まれがちな、建設的とは言えない競争意識から抜け出すためには、まずその原因を理解する必要があります。多くの教会開拓者たちは、「羊泥棒(=他の教会の信徒を奪う人)」というレッテルを貼られることを避けようとしますし、Geneva Pushのような教会開拓支援団体も、「既存の信徒の移動による成長(トランスファー・グロース)」に頼るのではなく、「新たに福音を伝えて教会を生み出すこと」に力を注いでいます。

しかし、実際の統計を見ると、現実はそれほど単純ではありません。ほとんどの新しい教会開拓には、何らかの形でトランスファー・グロースが関わっているのです。たとえば、開拓初期のコアチームや立ち上げメンバーに既存の教会の信徒が含まれていたり、近隣の教会の信徒が「新しい教会ができた」と聞いて様子を見に来たりすることがあります。

実際、教会開拓者の中には、そうした信徒を迎え入れる過程で、彼らが元いた教会のリーダーに十分な相談や配慮をせずに、彼らをリーダー的な立場に任命してしまうという失敗を経験した人も少なくありません。

さらに、教会開拓者は善意に満ちていることが多いのですが、既存教会の奉仕を軽視するような言動をとることがあります。実際、教会開拓の中には、昔ながらのプロテスタントの分裂傾向が華やかな衣装を着て現れたようなものです。ティム・ケラーはこれを「反抗的な教会開拓」と呼んでいます。この種の開拓の動機に関する彼の観察は、私がよく知っている多くの不快な状況に当てはまります。「教会の中には、教義やビジョン、あるいは働きの哲学をめぐる疎外感から、不満を抱き、分裂して新しい教会を形成する人もいます。」教会開拓で新しい人々に福音を届けることに重荷を感じている人と、物事が「正しく」行われていないと感じて不満を抱き、それに応じて新しい教会を始める副牧師との間には、わずかな溝があるかもしれません。どれほど高い志を持った教会開拓者でさえ、動機が複雑に混ざり合っている可能性を認めています。人間の心は神秘的で、自分でも気づいていない醜さを隠していることがあるのです。

協力の実

教会開拓や既存の教会を人々に伝道する活動のパートナーとしてではなく敵として扱ってしまうと、新しい教会と既存の教会の間の敵意や競争が軽減されることはありません。

教会開拓と既存の教会は敵ではなく、味方になれると思うのです。

双方が協力することで得られるメリットは数多くあります。たとえば、教会増殖ムーブメントに関するデータによると、派遣教会(あるいは、教会開拓のパートナーである教会のグループ全体)との良好な関係は、新しい教会の健全性と存続に大きな違いをもたらすことがわかっています。これは驚くべきことではありません。新約聖書の著者たちは、クリスチャンの一致とパートナーシップが宣教の有効性に結びつくことを何度も示唆しています。これはまさに、イエスご自身がヨハネ17章の「大祭司の祈り」で語っておられる内容に倣ったものだと言えるでしょう。

ですから開拓者たちの皆さん、気をつけてください。既存の教会を気軽に批判するならば自己責任で行うこと。宣教のパートナーになる可能性のある人々と距離ができてしまう危険があるだけではありません。もう少し現実的に言えば、ご自身が休暇を取る必要がある際に代わって説教をしてくれる牧師が見つからないというリスクがあるからです(実際あなたは休暇を取る必要があるのです!)。また、ご自身が開拓した教会自体が既存の教会になった場合、過去の発言を撤回しなければならなくなるかもしれません。

同様に、既存の教会を導いている人々は、教会開拓が既存の教会にとって明らかに良い影響をもたらすという事実に真剣に向き合う必要があります。教会開拓には、既存のミニストリーのみならず、その地域全体における宣教の働きにも良い効果をもたらすことが、数多くの事例を通して明らかにされています。

たとえば、オーストラリアにおける「ナショナル・チャーチ・ライフ・サーベイ(NCLS)」では、新しい教会(設立から10年以内の教会)には「新来者」、すなわち過去5年間に教会と積極的な関わりを持っていなかった人々が、平均よりも高い割合で集っていることが一貫して示されています。2016年の調査によれば、全国的に見た教会における新来者の平均割合は6%でした。これに対して、2015年にシドニー教区で行われた別の研究では、新しい教会におけるその割合が13%に跳ね上がることが示唆されています。ですが、この調査では、採用されている教会開拓のモデルによって数字が異なると指摘されています。

もちろん、単に新しい教会を開拓したからといって、確実な数の新来者が増えると限りませんし、ましてや実りある伝道が保証されるわけでもありません。ライフウェイによる重要な調査によると、伝道活動は、いわゆる戸別訪問のような「昔ながらの」活動であっても、未信者の人々を引き付けることに効果的だということが強い相関関係で示されています。つまり、地域社会に福音を届けるためには、何かしらの具体的な行動を起こす必要があるということです。

ここでは、既存の教会と新しい教会がほぼ同等の条件にあると言えるでしょう。むしろ、既存の教会が健全で十分なリソースを備えていれば、有利に働く可能性さえあります。伝道活動のための動員は極めて重要な課題です。それは、新しい教会であろうと既存の教会であろうと、忠実な弟子としての歩みと宣教における実りある成果の両方に関わる課題です。

このような観点から見ると、教会開拓は、地域内のすべての教会の健全性と活力に貢献するという主張が強くされるべきでしょう。

一方で、新しく生まれた教会が人々へのアプローチや弟子訓練の中で学んださまざまな教訓は、やがて既存の教会に還元されることがあります。たとえば、地域助成金を得たり、希望する会場を借りる条件を満たすために始めた地域奉仕活動が、思いがけず教会の地域社会における信頼を大きく高めることになるかもしれません。あるいは、開拓チームの中に子どもミニストリーに優れた人材がいたことで始まった優れた子ども向けプログラムが、幼い子どもを育てる家族にとって週末の「救い」となり、多くの家庭を魅了することもあります。また、開拓礼拝前に向けて、ソーシャルメディアの戦略的な活用や郵便受けへの投函など、どのような方法が地域に最も届きやすいかを学ぶ試みが行われるはずです。これらの方法を含めて、新しい教会は宣教のための「研究開発部門(R&D)」のような役割を果たすことができるのです。、

これは、スタートアップの文脈で得られる教訓の「応用可能性」について、ビジネス界のリーダーたちが指摘していることとも重なります。最近の『ハーバード・ビジネス・レビュー』の報告では、スタートアップが生き残るために必要とされる「俊敏さ(アジリティ)」「学びの姿勢」、そして「成長志向のマインドセット」は、あらゆるタイプのビジネスに有益であると述べられています。特に、急激な変化のただ中にある今日のビジネス環境においては、なおさら重要です。私の考えでは、この点において教会も例外ではありません。教会が置かれている文化的な立ち位置がこれほどまでに急激に変化している現代において、私たちが適応に失敗、あるいは適応が不十分であれば、それは教会にとって非常に深刻な結果をもたらす可能性があるでしょう。

一方で、新しい教会開拓に積極的に協力する既存の教会は、多くの場合、たとえ人材やリソースを手放す痛みの中にあっても、大きな祝福と実りを経験していると報告しています。新しい教会の「母教会」となることや、教会開拓チームを送り出すこと、あるいはその他の形でのパートナーシップなど、方法はさまざまですが、意欲的で中心的なリーダー(あるいはリーダー候補)を手放すことは、やはり辛いものです。人を送り出したあとの教会は、以前とは同じではなくなります。しかし、それが生み出すスペースによって、新しいリーダーシップが現れ、新しい試みが始まり、新たなつながりが生まれる場ともなるのです。人を「送り出すこと」によって開かれる新しい可能性は、主の御国の経済の中では決して無駄になることはなく、意義深いものとなるでしょう。

結びにあたり、教会開拓派と既存宣教派のどちらの立場の人も、それぞれの立場を超えて、以下のネイサン・キャンベル氏の言葉に、静かに思いを巡らせてみる価値があるのではないかと謙虚に提案したいと思います。

洗練された新しい教会開拓が、クールなリーダーたちと素晴らしいビジョンによって導かれていると聞くと、どこか不安を覚えてしまう。その理由は、多くの場合(私自身も含めて)、自分たちが地域社会に対して何を提供できているのか、自信が持てないからではないでしょうか。しかし、限られた人材という視点ではなく、広大な宣教分野と、未だ福音に出会っていない人々に手を差し伸べようとすること、それこそが、この不安に対して正しい視座を取り戻す最善の方法なのです。

私たち全員が、競争心や不安感を克服するために、宣教に対するより大きなビジョンを培う必要があります。たとえそれが、私たちの地域に新しい教会ができる見通しに関するものでも、私たちが始めようとしていることに対する熱意を共有していない既存の教会に関するものであってもです(現実的に言えば、あなたほどこのことに熱意を持っている人は誰もいません)。

私たちの多くは、イエスが語られた「収穫の主に働き人を送ってくださるように祈りなさい」という御言葉を、熱心に語っていることでしょう。

しかし、正直に言うならば、私達はおそらく、その働き手が私たちのミニストリー内で育てられることを望んでいるでしょう。そこでは(神がご存知のように!)実際に必要が大きく、そしてリソースが常に不足していると感じているからです。

それでもなお、御子を聖霊の力によって世に遣わされた父なる神は、私たちの感じる「不足」によって脅かされるお方ではありません。むしろ、イエスご自身こそ、究極の欠乏と苦しみを私たちのために味わわれた方です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたその十字架の苦しみの中で、創造主を離れた私たちが受けるべき欠乏と断絶を、主は身代わりに負ってくださいました。万物の主であり、豊かさと自由に満ちたお方が、ご自身を貧しくし、死に至るまで従われたのは、まさに私たちのためです。

この福音の現実が私たちの心を満たすとき、私たちは、自らの見かけ上の不足から視点を変え、互いを競争相手ではなく協力者として見ることができるようになるのです。

著者:クリス・スワン

シティ・トゥ・シティ・オーストラリアにおいて研修ディレクター。教会開拓者やその他のリーダーたちが、キリストの恵みを個人的に深く受け取り、それを他者に分かち合う力を育むことに情熱を注いでいる。オーストラリア各地の神学校や聖書学校において、ミニストリー、伝道、教会開拓に関する非常勤講師も務めており現在は妻と二人の子ども達とともにメルボルンでの生活を楽しんでいる。

この記事は、最初にオーストラリアのEFAC(the Evangelical Fellowship in the Anglican Communion 英国国教会福音派)の雑誌「エッセンシャルズ」2019年夏号に掲載されました。https://redeemercitytocity.com/articles-stories/church-planting-friend-or-foe?rq=counter%20#