日本の教会における聖書的なリーダーシップのビジョンの回復
English version is here.
おなじみのパターン
日本には、多くの人が認識しているものの、具体的に言及することはめったにない文化的な現象が存在します。ある男性は、長年にわたりサラリーマンとして働き、日本特有の謙虚さをもって出世の階段を登っていきます。同僚よりも深く頭を下げ、言葉遣いに気を配り、目上の人には敬意を表し、ためらうことなく謝罪するのです。あらゆる社会的尺度から見ても、彼は好感が持て、親しみやすい人物です。しかし昇進すると、何かが変化します。かつては思いやりがあることで知られていたその男性は、扱いにくく、支配的で、距離感のある人物へと変わります。チームは男性の気まぐれを恐れます。部下たちは彼と協力するのではなく、彼を避けて仕事をするようになります。「パワハラ」(パワーハラスメント)という言葉が、日本の日常語として定着したのには理由があります。それは、日本の職場で痛ましいほど普遍的に見られるパターンを的確に表現しているからです。
このパターンには文化的な根深い背景があります。心理学者の土井武夫は、画期的な研究『甘えの構造』(1971年)において、目上の者から寛容な容認を期待する「甘え」が、いかに日本の社会関係を形成しているかを考察しました。他者を導くための内面的な資源を十分に育むことなく権威の座に上り詰めた場合、「甘え」の力学は単に逆転するだけなのです。つまり、かつて他者に依存していた者が、今度は他者からの絶対的な依存を要求し、支配を強いるようになるのです。謙虚さとは、結局のところ、形成された性格的特徴というよりは、主として社会的なパフォーマンスに過ぎなかったのです。
これは日本特有の問題ではありませ ん。しかし儒教的な社会秩序、企業の年功序列制度、そして上司の振る舞いを抑制しうるような率直な異議申し立てに対する根深い文化的忌避感によって形作られた日本の階層的文化の特異な様相は、「サラリーマンから暴君へ」という変貌を遂げる者たちにとって、とりわけ好ましい条件を生み出しています。
問題は教会の扉の外で止まらない
このパターンが企業社会に限定されていたとしても、十分に憂慮すべき事態です。しかし現実にはそうではありません。同じ力学が、時にはより鮮明な形で日本の教会内部にも現れているのです。
日本の教会指導者たちは、サラリーマンと同様の文化的土壌に形作られて牧会に就くことがよくあります。しかし、そこに神学的な層が加わることで、事態は改善されるどころか、むしろ悪化する可能性があります。日本の多くの牧師は、「リーダーシップ」という概念そのものに対して深い疑念を抱いています。リーダーシップは世俗的なものに感じられ、野心や階層、そして新約聖書が軽視して見ているような地位に基づく権威を連想させるからです。権威を主張することを避ける牧師は、自信を持って権威を行使する牧師よりも、霊的に謙虚であると感じられることがあります。
その結果、日本のキリスト教研究者が繰り返し指摘しているように、牧師の過重負担というパターンが生じているのです。日本の教会は牧師への依存度が極めて高く、権威や機能がチーム全体に分散されるのではなく、一人の指導者に集中する傾向があることが広く認められています。説教、牧会、運営、そしてビジョンのすべてが牧師一人に委ねられている場合、その教会は一人の人間が個人的に管理できる範囲を超えて成長することはできません。さらに根本的に言えば、これはリーダーシップの目的について、深い神学的な混乱を反映しているのです。
その結果、あまりにも多くの場合、教会は権限委譲ができないために成長できず、そして権限委譲ができないのは、それを行うための神学的・実践的な枠組みを一度も構築してこなかったからなのです。
この混乱の中で活動する一部の牧師は、自覚することなく支配へと流れていきます。「他者を通して導くことができないなら、他者を押しのけて導くしかない」という考えです。会衆は育成されるのではなく、管理されることになります。潜在的なリーダーたちは、委任されるのではなく、側近として引き留められてしまいます。教会の存在目的が「教会を通じて都市に奉仕すること」であるべきなのに、実際には「ミニストリーに奉仕すること」であるかのような、意図せぬメッセージが発信されてしまうのです。
二つの誤り、一つの根源
支配的なサラリーマン管理職と、支配的な日本の牧師を結びつけるものは何でしょうか。両者とも、権威とは何か、そしてそれがどこから来るのかについて、根本的に歪んだ認識を内面化してしまっているのです。
企業のリーダーは、権威を「獲得したものであり、したがって所有するものだ」と見なす傾向があります。地位は賞品です。一度手に入れれば、それは自分のものであり、自分の思うままに使えるのです。これを表す神学用語は「所有権」です。つまり、自分の地位を所有しており、それを自由に扱ってよいというものです。
リーダーシップを避ける良心的な牧師は、反対の過ちを犯しがちです。すなわち、権威を本質的に人を堕落させるものとして扱い、最小限に抑えたり、否定したりするのです。この神学的反応は、純粋な奉仕へと向きつつも、積極的で指導的な側面を持つ本質的なケアとは切り離されたものとなりがちです。その結果、本質的な共有型リーダーシップに不可欠な透明性がないため、主張的ではないとはいえ、支配的であることに変わりない一種の受動的な管理が生まれます。
「所有者」と「責任放棄者」という両方の誤りは、聖書が提示する第三のカテゴリー、すなわち「管理者(スチュワード)」を見落としています。
聖書の比喩:管理人としてのリーダー
聖書は、リーダーシップについて豊かで創造的な比喩を提供しています。それは「管理人(オイコノモス)」、すなわち他人の家事を司る者というものです。このイメージは副次的なものではなく、創世記からイエスのたとえ話、そしてパウロの手紙に至るまで一貫して見られ、権威の本質と、それを忠実に行使するために必要な資質の両方を再定義しています。
創世記1章において、神は人間に被造物を支配するよう命じられます(創世記1:28)。詩編の作者はこの召命の範囲を次のように捉えています。「あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました」(詩編8:6)。これは真の権威であり、本物の支配であり、世界に対する創造的かつ組織的な能力の行使です。それは受動的なものではありません。しぶしぶ認められたものでもありません。それは創造主ご自身からの召しなのです。
しかし、ここが極めて重要な条件ですが、この権威は所有権からではなく、委ねられた責任から完全に流れ出るものです。管理人は主人の家事を管理します。資源は管理人のものではありません。その事業は管理人自身のものではありません。管理人は、家事がどのように運営されているかについて、他者に対して完全に説明責任を負うのです。
イエスは「タラントのたとえ」(マタイ25:14-30)において、これを具体的に示しています。主人は「それぞれの能力に応じて」しもべたちに資源を配分し、その後旅立ちました。主人が戻ったとき、主人が称賛したのは受動性ではありません。主人が称賛したのは生産性、すなわち成長、投資、そして利益でした。恐れからタラントを地中に埋めてしまったしもべは、その慎重さゆえに称賛されたのではありません。行動しなかったことに対して叱責されたのです。「悪しき怠け者」という評決は、まさに自分に託されたものを何にも使わなかった者に下されたのです。
忠実な管理とは、自己犠牲ではありません。それは能動的で、勇気があり、実りをもたらすものです。
パウロはコリントの信徒への手紙の中で、同じ枠組みを用いてこう書いています。「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです」 (Ⅰコリント4:1-2)。管理者のアイデンティティーは、主張する地位によってではなく、示される忠実さによって定義されます。テトスへの手紙の中で、パウロは長老を「神の管理人」(theou oikonomos)と描写しており、これは牧会の職務を、会衆の所有権としてではなく、完全に他者に属するものを管理することとして位置づけています(テトス1:7)。
「管理」は両者を結びつける
「管理人」という比喩が日本のキリスト教指導者にとってこれほど豊かな示唆を与えるのは、日本文化や日本の教会において引き裂かれがちな二つの要素を、見事に結びつけているからでしょう。
一方には、真の権威、実在する責任、積極的なリーダーシップへの期待、そして賢明な権限委譲があります。ティム・ケラーは、創造の使命に言及しつつ、『センター・チャーチ』(2012年)の中で、牧会のリーダーシップには、神が初めから人間の本性に埋め込んだのと同じ、育成、構築、組織化の能力が関わっていると論じています。指導することを避けるのは謙遜ではなく、その召命への中途半端な態度です。あらゆる決定を自分一人で抱え込み、決して他者を育成しようとしない牧師は、無私無欲なのではありません。彼は、自覚しているか否かにかかわらず、自分に委ねられたものに対して不誠実なのです。
その一方で、万物の所有者である方への完全な説明責任があります。管理者の権威は委任されたものです。その力は管理者自身のものではありません。彼はその力をどう用いたかについて説明を求められます。この説明責任は、やむを得ず受容される制約ではありません。むしろ、管理者の人格を形作る核心そのものです。なぜなら、管理者は、その家(教会)が自分の安楽や出世のために存在するのではないと知っているからです。それは発展するために存在し、彼はその「しもべであり管理者」なのです。
つまり、聖書的なリーダーは心から謙虚ですが、それは権威がないからではありません。所有者ではないから謙虚なのです。誰が主人なのかを彼は知っています。その謙虚さは、圧力の下でぐらつく社会的な見せかけではありません。それは、地位ではなくアイデンティティーに根ざしているからこそ揺るがない神学的確信なのです。つまり「私は所有者ではなく、管理人である」という自覚です。
これが、聖書的なリーダーが真に「導く」ということの意味です。彼は、受動的な存在として、あるいはすべてを自分一人でこなすことによって管理するのではありません。他者に投資し、潜在能力を引き出し、明確に権限を委譲し、自分に託された人々に対して成長し、さらに多くの人々を生み出すよう呼びかけます。その働きに対して統治と支配を行使するのは、自身の繁栄のためではなく、他者や都市の繁栄のためなのです。
日本の牧師および教会開拓者へのメッセージ
もしあなたが日本の牧師や教会開拓者であるなら、この枠組みは両刃の剣となるでしょう。
もしあなたが、日本でお馴染みの強権的な管理者とは一線を画したいという純粋な願いから、リーダーシップを避けてきた傾向があるなら、この「まことの管理人」という比喩は、考えを改めるよう促すものです。あなたの会衆は、組織やビジョンから守るべき「所有物」ではありません。それはあなたに託されたものであり、都市の繁栄のために、育てられ、発展させられ、送り出されるべきものです。家長である主は、あなたが与えられたものをどう用いたかを問われるでしょう。
もしあなたが支配に傾きがちであるなら――おそらく、権限委譲にはリスクを感じるから、あるいはあなたがすべての中心にいなければ教会は機能しないかのように感じるからでしょう――「管理人」という比喩は、あなたに別の種類の勇気を求めています。それは、他者に投資し、仕事を分かち合い、あらゆる場面であなたの個人的な存在に依存しないものを築き上げる勇気です。
「責任放棄」と「支配」という両方の傾向は、究極的には同じ根本的な混乱を反映しています。それは、所有権の問題をまだ解決していないリーダーの存在です。日本の教会には、その問題を解決したリーダーが必要です。表向きは謙遜を装いながら密かに権力を握り続けるリーダーでも、権威を否定しながら密かに支配するリーダーでもありません。必要なのは「管理人」です。すなわち、そもそも権威は自分のものではないと知っているので、手を広げて真の権威を委ね、かつ主人から収穫を期待されていると知っているので、その権威を大胆に行使する -そんな男性であり女性なのです。
参考文献
土井武雄『依存の解剖学』(講談社、1971年);ティム・ケラー『センター・チャーチ』(ゾンダーヴァン、2012年)。
実践的なストーリー
田中牧師が抱える問題の根本には、長年染み付いた日本の社会的な価値観がありました。彼はクリスチャンになってからも、歴史ある教団の「サラリーマン」的な考え方、つまり「謙虚で勤勉なら評価される」という枠組みの中で成長しました。地位や人からの承認は、自分の成果(パフォーマンス)と、人から尊敬されること(「甘え」の心理が逆転した形)で得られるものだと信じていたのです。
牧師になってからも権威を主張するのを避け、「霊的に謙虚」に見せようとしましたが、それは実は、深い自信のなさを隠すための見せかけの振る舞いでした。心の奥底には、「説教が素晴らしい」「献金が増えた」「教会員が熱心に奉仕している」という「ミニストリーの成功」を通じて、自分が「良い牧師だ」と証明したい強い思いがありました。最近、教会の中心的な存在である佐藤夫妻にあるミニストリーを任せたのですが、彼らが予想以上に活躍し始めると、田中牧師は喜ぶ一方で、自分の存在価値が揺らぐのを感じていました。
そんなある時、牧師仲間に、佐藤夫妻の計画を止めるべきだと考えている「もっともらしい理由」を話しました。すると、仲間はこう問いかけてきたのです。「そのプロジェクトの是非の前に、実際に君の価値を脅かしているものは何だい?」
この一言は、田中牧師が佐藤夫妻を説得するために準備していた『完璧な指導案』の裏に潜んでいた、「自分の功績や成功だけが、自分の価値を証明する」という長年の固定観念を、白日の下にさらしました。その瞬間、彼は自分が信じ、説教で伝えてきたはずの「神の恵みによる、無条件の愛と受容」という福音の真理が、自分自身の心には全く届いていなかったことに気付き、自分が「神の恵みによってではなく、自分の努力と成功によって価値を得ようとする『宗教的なプライド』」に囚われていたことを痛感しました。
しかし、頭で理解することと、心で受け入れることは別でした。彼はまだ佐藤夫妻の働きを心から喜べずにいました。「私がやらないと」「私がやったほうが早い」という、「サラリーマンから暴君へ」と変貌する際の『所有者』の誘惑が激しく心を占領するかと思えば、自分の気づきに促されすぎて、支配だけでなく管理する責任も投げ出したい衝動との間を行ったり来たりしていました。
数日後、彼は牧師仲間とカフェで再会し、胸の内を明かしました。「あの時の君の言葉がずっと頭から離れないんだ。でも、実際の牧会にどう生かしたらいいのか。そうこうしているうちに、決めなきゃいけないことや、やらなきゃいけないことが、どんどん溜まっていくし…信徒には早く決めてくださいって急かされるし」
仲間は笑いながら答えました。「そうだよね、考え方をすぐに変えるのは難しい。だからそういう時、僕はただひたすらこう自分に言い聞かせるんだ。『私は所有者ではなく、管理人だ』って。だから最近は有能な管理者になるにはどうしたらいいんだろうってことばかり考えてるよ」
田中牧師は今も、真夜中に目が覚め、教会のすべてを自分のコントロール下に置きたくなる衝動や、それができないなら逆に全てを放棄したいという誘惑と闘っています。しかし、そんな時は仲間が教えてくれたように、地位や成果ではなくアイデンティティーを示すこの言葉を静かに繰り返します。「私は所有者ではなく、管理人である」。そして全能の主権者である神の有能な管理者ならどう委任し、どう決断し、責任を取るのか、いつの間にか考えている自分に気づくようにもなったのです。
著者:CTCJ共同執筆チーム
2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。
