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最近、成人した娘からこんなことをよく言われるようになりました。『お父さん、若い子たちはもうその言葉は使わないよ』。最初に聞いた時は、単純に『ああ、次世代の流行語があるのかあ』という程度に聞き流していました。でも何度も言われるうちに自分の持っている文化や考え方がもはや通用しなくなってきていることを実感するようになりました。自分としては多様な文化に興味があるし、旅行で異文化に触れることはもちろん、アニメ、漫画、ゲームなどのサブカルチャーや、音楽もさまざまなジャンルに触れてきたつもりです。ですが娘のコメントで若い世代に取り残されているという感覚を覚えたのです。これをミニストリーに当てはめてみると、どうでしょうか?
文化や社会が激変する中で、考え方や価値観も変化していきます。そもそも日本人は強い集団主義とプレッシャーの中で、世間体を気にしながら生活してきました。現代の若い世代は学校や会社ではその集団主義を実感していますが、ひとたびソーシャルメディアに目を向ければそこでは自己主張が中心の個人主義を経験できます。このように、様々な文化的・社会的な価値観、つまり異文化や他宗教の価値観に触れられ影響を受ける時代に、どのように効果的に福音を述べ伝えられるでしょうか?
そのような課題は新約聖書のパウロの時代にもありました。パウロは異邦人への宣教の中心人物でした。彼はコリント人への手紙7-9章で、文化との関わり方の重要な要素を教えてくれています。すなわち異なる文化、社会、宗教、立場、価値観を持つ人々への福音の伝え方です。
福音という絶対的な価値観
まずパウロは、キリストの福音にあって全ての物事を判断する基準を持っています。
「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。」
(コリント人への手紙 第一 8:6)
パウロは、『神から全てのものが発している』という理解を持っています。これはこの世の中の善悪の価値観の基準や、善悪の判断に極めて重要なことです。クリスチャンの多くは物事を白黒はっきり分けることで、何が善で何が悪かを単純に決めようとしがちです。しかし聖書的な視点はそう単純なものではありません。創世記1-2章によると、全てのものは良いものとして創造されました。しかし、私たち人間も含め、良いものが堕落し、この世界には悪と罪が入ってきてしまいました。その前提で言うと、全てのものに『良さ』そして『悪さ(歪み・堕落)』があります。
ティモシー・ケラーは、「二都物語 A tale of two Cites(Charles Dickens)」と著書の一部をまとめて、文化について二つの要素を強調しています。まず、どの人もどんな文化も本質的に必ず、恵み、そして罪の要素を持っていること。そして二つ目に、この世界でいわゆるこれぞ「キリスト教文化」と呼べるような単一の文化を形成するための具体的な設計図は、新約聖書では提供されていないと言う点です。
まず私たちがすべきことは、どのような文化でも、関わる文化を完全に悪として否定するのではなく、その中にある良い要素、そして悪い歪んだ要素の両方を見ることです。神の一般恩恵によって、本来そこにある素晴らしい要素を見出すこと、同時にその文化が、神が意図した本来あるべき姿や形からどれほど離れてしまい、その機能がどのように歪んでいるのかを理解する必要があります。例えば、世間体を気にするという前述した日本の文化的価値観には、転じて「周りの人々を配慮する、同調性を持つ」といった良い面があります。このような価値観は、震災などの危機的な状況の中で個人が勝手に行動し混乱を招くような事態を避けるためには必要不可欠なものです。しかし別の状況でその価値観だけを重視した場合、問題が生まれることもあります。また日本の学校では、協調性を強いられ、皆と同じであるべきと言う価値観が先走り、個性が重んじられず、個人の役割が明確にならない場合があります。最悪のケースでは、人と違うことが差別の基準になってしまうこともあります。しかし聖書の価値観では、第一コリント12章にあるように、私たちはキリストのからだとして一致があると同時に、それぞれ役割があるのです。集団も個人も両方、同時に重んじられるべきという視点です。
このように、まず一人のクリスチャンとして、福音という、聖書に見られる完全な神の基準を持つことが求められます。そうすることで、ある文化の価値観を完全に否定することなく、またその文化を過剰に称賛してしまうことで、伝えようとしている福音のメッセージを歪めることなく、その文化に真摯に向き合う姿勢が生まれます。そのような包括的な聖書的価値観の土台を持たなければ、本来神が『良し』としたものを悪とし、また逆に『悪い』ものを『良し』としてしまう危険性があるのです。
文化とは?
では、聖書的な『文化の定義』とは何でしょうか? 先ほど少し説明した創世記1-3章の観点からすると、文化とは、社会において『これが基準だ』『これが大事だ』と思う「考え方や価値観を表すために、人が作り出したもの」となります。それは神が本来意図した世界から離れ、人間が自分たちのルールや価値観に合わせて作ったもう一つの環境だとも言えます。
本来、アダムとエバの役割は、神に与えられた『自然の世界と素材(一次的環境)』を用いて、人々が神の御心に沿って心地よく過ごせる環境(ニ次的環境)を整えていくことでした(創世記2章)。しかし、堕落し、神を中心に生きることをやめた人間は、自分たちの善悪の判断により、その価値観とニーズに仕えるための社会や文化を構築してきました。人は堕落していても、環境づくりという、神に与えられた環境や素材を工夫し再生産していくという使命はずっと持ち続けて今まで存続してきました。その産物がいわば現代の文化とも言えるのかもしれません。別の言い方をすると、文化とは、人が神という存在を捨ててでも生き続けようとするための価値システムであり、救済システムでもあります。
しかし、皮肉なことに、全てを機能させるために一番重要な神であるという『歯車』を捨ててしまっているので、どの文化も神の与えた良い要素を用いながらも不完全であり、うまく機能していないどころか、徐々に滅びに向かっているというのが現状です。そのような現実の中にいる人たちに伝えるべき福音の要素の一つは、キリストを通して完全な文化である『神の国』に戻ることができるという良い知らせです。
文化にある偶像の理解
文化の理解と関わりの中でもう一つ重要な要素は、文化にある偶像の概念です。先ほど触れたように、どの文化も、ある特定の価値観を最重要視しています。そこには、その価値観を守り、保つことで、その文化や社会が機能するという考えがあります。それはその文化において真の神に代わる、代理の神という形であり、いわば偶像として機能します。そういった偶像礼拝的な価値観を中心にして推奨される人生観が成立しています。全ての文化には、『良いと思われる要素』、『悪いと思われる要素』、そして『どうでも良いと思われる要素』があり、それらはそれぞれの文化によって異なります。そしてその偶像となる最重要価値観を土台にして、どの文化にも存在する、以下のような人生に対する大きな疑問を解決しようとしているのです。その疑問とは『なぜ私はここに存在するのか?』、『何が人生で一番重要なのか?』、『この世界の問題は何なのか?』、『何がそれを解決できるのか?』といったものです。
例えば、個人主義的な文化や国では、自己表現や自分自身の役割、特に自分がヒーローとなることが重要だと考えます。ですから、「まず個人であるひとりひとりが尊ばれ、幸せになれば、問題が解決され世界が良くなる」と結論づけるかもしれません。一方、集団主義的な文化では、家族、部族、会社という団体としての秩序を守り続けることの方が重要だと考えます。問題の元凶は不一致や同調性がないことで、それを解決すれば世の中は良くなるという考えです。つまりそれぞれの文化によって、そこに生きる人々のアイデンティティや存在意義、目的、その人が受容され、愛され、選ばれる要素が異なってくるということです。もちろん文化とはさまざまな価値観がもっと複雑に絡み合っていて、それをここでは単純化させて説明しようとしているので、現実にはさらに深い理解が求められます。しかし、最低限言えるのは、そのような異なる文化、価値観にあって、常に同じ表現方法やアプローチで福音が伝えられるとしたらそれは効果的ではないということです。『キリストはあなた(個人)の罪のために死なれた』という伝え方は、個人主義の考え方を持った人々には効果的かもしれません。しかし、集団主義的な考えを持った人々にはあまり心に届かないメッセージかもしれません。後者はむしろ、『イエスは人類の全ての罪を背負い、すなわち連帯責任を取って私たちのために死んでくださった』という伝え方の方が理解しやすいかもしれないのです。そして、一人の人間が集団のために命をかけたという福音は、個人の行動や主張を重んじるべきだという価値観をも提供できるきっかけにもなるのです。
その文化にある偶像を理解することは、パウロの姿勢に見るように、『ユダヤ人にはユダヤ人となり、律法の下にある人には律法の下にある人のようになり、弱い人には弱くなる(1コリント9章参照)』という、どのような文化や価値観や立場の人々にも順応できる姿勢と知恵を持つことができようになります。そうできてこそ、具体的な文化や価値観に対して最も効果的な伝え方の工夫が生まれるでしょう。
最後に、キリスト者として文化との関わりに一番重要なことは、私たち自身に『福音という神の文化』的価値観が深く浸透することです。パウロはコロサイ3章で、もはや『ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる…』という主張をしたのち、『あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として』生きることを強調しています。どんな文化でも人々はある価値観を中心にして、その文化の中で自分が選ばれ、聖なる者つまり『特別な者』として、愛され受け入れられるために必死に生きています。もし私たちクリスチャンでさえ、神からではなく、私たちが住む文化において選ばれ、特別視され、受け入れられようとして生きているのであれば、キリストの救いを良い知らせとしてその文化に伝えることは決してできないでしょう。キリストにあって、すでに私たちは神に選ばれ、特別な者とされ、そして愛され受け入れられています。だからこそパウロのように人々に対して忍耐強く、寛容に、そして必要であればその人々の立場に立ち、神の知恵と知識を持って生きていけるのです。
実践的なストーリー:
日本の神はいわゆる神道の神にとどまりません。現代の日本人は「自分が自分の人生を決める神」だという感覚があります。それは八百万の神や目には見えないその場や状況によって変わる世間様という神的な存在が複数ある日本に特に見られる傾向です。そのような神々の中から自分の都合に合わせて神を選ぶのです。しかし自分が選んだにもかかわらずその神的な存在に逆に縛られるという矛盾した状態が生まれる可能性もあります。
ある首都圏近郊の教会では子どもたちのダンス発表会が開催されました。一般的に習い事の発表会は一生懸命練習を重ね、本番で上手に発表できることが前提とされます。前述した様々な神を選べる日本的な土壌で、子どもたちは上手に発表することで親や世間という神的な存在に認めてもらえることを中心に考えてしまう可能性があります。ですから牧師は子どもたちに上手に発表できることだけでなく、それを通して何より見る人たちが喜んだり励まされることが大切だと伝えました。子どもたちが自分たちのつくり主である神を喜び、また神から喜ばれている存在だということそのものが彼らのパフォーマンスに表れると思ったからです。結果子どもたちはリラックスして発表できましたし、その発表は不思議なことに、クリスチャンではない観客からも「一般のダンス教室の発表よりもレベルが高かった」と感心されるほどだったのです。
著者:CTCJ共同執筆チーム
2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。