English version is here.
聖書で最も頻繁に出てくる命令がなぜ私たちの状況に語りかけるのか。
日本では勇気はしばしば静かで控え目な形を取ります。調和や同意を重視する価値観から、キリストについて語ったり、率先してリーダーシップを取ったり、正直な疑問を口に出したりする時などに目立ち、気が引けるものがあります。このような環境で公に信仰を表現したり重要なリーダーの役割を引き受けるのは容易ではありません。
勇気は恐れのなさではなく、恐れの中で神を信頼する意思があることだと聖書は思いおこさせます。「恐れることはない」という励ましは聖書の中で最も頻繁に出て来ます。神はその民を、彼らがもともと勇敢だからではなく、神が忠実で近くにおられるから恐れずに行動するように促しておられるのです。ヨシュアがイスラエルを約束の地へ導く準備をしている時、神はヨシュアに委任されました。その時の表現ほど愛情を込めた節は他にはあまり見当たりません。
「強く、雄々しくあれ。彼らのゆえに恐れてはならない。うろたえてはならない。あなたの神、主が、あなたとともに歩まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
(申命記 31:6)
聖書による勇気の真髄は自分の自信ではなく、不変である主の存在においての自信です。主が共に歩んでくださることを私たちが知る時、恐れは主張する力を失い、もはや最終的な決定権をもつものではなくなります。
神の約束が最初に来る。
ヨシュアが「強く、雄々しくあれ」と呼びかけられる前に、モーセは神がすでに約束してくださったことを人びとに告げていました。
「あなたの神、主、ご自身が、あなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼされる。あなたは彼らを得る。ヨシュアが、主が告げられたように、あなたに先立って渡って行く。」
(申命記 31:3)
日常的生活で人々はしばしば勇気は内面の強さだと思ってしまいます。しかし、聖書は別の所ー私たちの先を行く恵みと共にーから始めています。神が民に強さを自分の中から湧き出すように促されることは決してありません。その代わり、神がすでに成し遂げると約束してくださったことに頼るようにいざなわれています。イスラエル人は救いを作り出すのではなく、救ってくださる唯一のお方を信頼するように命じられたのです。
このような依存は謙虚さや社会の和を深く尊重する文化の中では直感に反するものだと思われるかもしれません。恥る気持ちは個人が公の場で信仰を表現するのを妨げる強い力となり得ます。それでも神の御言葉は勇気を、文化への抵抗から神への信頼へと置き換えています。主はイスラエルにされたように民の前を行かれることを約束してくださいました。従順さ、静かな従順さでさえ、さらに真実な勇気の表現となるように。
この約束はまた自己依存のもろさを明らかにしています。勇気が自分の自信だけに左右されるならば、危機が迫った時、即座に消え失せてしまいます。しかし神は失敗されないお方です。だから変わらぬ神を根拠とした勇気は持ちこたえるのです。モーセが「主は彼らをあなたがたの前に引き渡される」(申命記 31:5)と告げたように。結果は困難が始まるよりはるか前から神の手中にあったのです。
ティモシー・ケラーはこの見解を著書の中で強調しています。「神の約束, すなわち神は根本的にあなたのためにおられるという信念を捕えた信仰は驚くべき強さを放つ。」この信仰は単なる願望ではなく、神の不変の本質と約束に深く根付く確信なのです。私たちが勇気の源を自分自身の能力ではなく神の忠実さに置く時、人生の困難や危機に耐えるしなやかな強さを見出します。
勇気は恐れに直面する時の従順さ。
「強く、雄々しくあれ」と言われる時、神は恐れは現実のものだとご承知です。勇気は恐れていないふりをするのではなく、心が震えているのにもかかわらず忠実さを選択することです。脳科学では「人間は危機に自然と敏感になるものだ」と言います。 しかし聖書はこの現実を拒否するのではなく、確信と共に立ち向かいます。「彼らのことで恐れてはならない。うろたえてはならない」神は「あなたの神、主ご自身が、あなたとともに歩まれるからだ」(申命記 31:6)と言われます。安心感は私たちの強さではなく、神の存在に基づいているのです。
私たちの文脈ではクリスチャン人口の割合は僅かです。社会的な誤解や孤立への恐れを深く感じます。キリストを公に告白することは、親しい人々との間でも誤解や孤立のリスクを伴います。しかし、神のヨシュアへの約束は今日でも有効です。「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。
それならば、勇気は繋がりの中での信頼だと理解するのが最も適切です。ヨシュアを招いたその神が信じる者一人ひとりと共に歩いてくださいます。東京の誰かが静かに友人に希望を話す時、または同僚のために祈る時、その行動は信仰の同じストーリーに参加することになります。
この視点で、間違った勇気のふたつのパターンを見極めることは有益かもしれません。ひとつは回避ー恐れのための躊躇です。もうひとつは自己主張ー神に頼らないで前進することです。両方とも不安感から湧き上がってきます。しかし、真の勇気は全ての不確かさの中で私たちに寄り添ってくださるお方に委ねて自分の内側を見る代わりに上を見ます。
主ご自身がしもべを強くしてくださる。
「モーセはヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの前で彼に言った。「強く、雄々しくあれ。あなたこそ、主が彼らの先祖たちに与えると誓われた地に、この民を連れて行き、彼らにその地を受け継がせる者だからだ。」(申命記 31:7)
リーダーシップは個人と公の両方で見られます。私たちの文化の中で謙虚さは控えめな態度として表されるので、リーダーシップを発揮することは厚かましいと思われるかもしれません。日本のリーダーシップの調査によると 「上下関係で期待されることはイエスをモデルとした仕えるリーダーシップとは違う時がある」のです。しかしヨシュアへの主の言葉は、謙虚さと勇気が共存できることを示しています。
真の謙虚さから認識できるのは、強さは神から来るべきものだということです。「 主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記 31:8)教会であれ、職場であれ、家庭であれ、クリスチャンとしてのリーダーシップを発揮するあらゆる行動は、この主との関係に根ざしていなければなりません。
このような確信から牧師や信徒リーダーは安心感を得られます。2017年の日本福音協会の調査によると、58%の牧師が職場で強い霊的な反発を感じているそうです。この葛藤は日本に限ったことではなく、世界中の教会で見られます。そうであっても、主はご自身のしもべの前を行くことを約束してくださっています。
ヨシュアを力づけた同じ神が今日でも信じる者を新しく力づけてくださいます。会衆を導くにしても、日常生活で静かに仕えるにしても、神の存在は壊れやすい心を安定させてくださることを思い起こさせます。神が私たちの前を歩んでくださるので、躊躇する一歩でさえも、神の忠実さに対する自信の表れとなりえるのです。
キリスト、ヨシュアよりさらに先をいく方
ヘブル語でヨシュアは「主が救う」という意味です。何世紀か後、神の救いの目的を完璧に成就されたイエス(イェシュア)に同じ名が与えらました。ヨシュアがイスラエルを約束の地に導いたように、キリストは人びとを神の御国の豊かさに導かれました。神がヨシュアに求められた勇気は、父を信頼してイエスが十字架に直面されたその時、完璧なものになりました。
イエス御自身の生涯を見ると勇気は仰々しくなく、強引でもありません。ゲツセマネでは苦しみの中で祈りながらも「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」とご自分を捧げられました。重圧の中でのイエスの従順さは、勇敢であるとは恐れないことではなく誠実であることだと再定義しています。イエスが愛をもって恐れを打ち負かされたので、信者は今イエスの勇気の中で歩むことができるのです。復活されたキリストはまさに神がヨシュアの前を行かれたように私たちの前を歩いてくださるのです。
日本の教会、そして信者が沈黙を保つように圧力をかけられている所ではどこでも、この福音の真実は安心感をもたらします。キリストは単に私たちに強くあるように命じておられるわけではなく、その強さを私たちに分かち合ってくださっているのです。キリストの霊が私たちの中に宿って、躊躇を希望に変革してくださいます。公になった信仰が社会の和を脅かすように感じられる時でも、主は救ってくださるだけでなく、守ってくださることをクリスチャンは思い出すことがゆるされているのです。
どの世代も不確かな中で神を信頼するとはどういう意味なのか新たに学ばなければなりません。ある人にとっては勇気は公の証人のようなものかもしれません。またある人にとっては祈りの中の静かな忍耐かもしれません。日本では勇気とは同僚を教会へ招待すること、家で声を出して祈ること、又はただ参加することから率先して導く立場に移ることを意味するかもしれません。弟子が恐れより信仰を選ぶ所ではどこでも、彼らはヨシュアを力づけた主と同じゆるがない主を証言しているのです。
聖書には「恐れるな」という命令が365回出てきます。一年の間、毎日です。この繰り返しは偶然ではありません。これは神が毎日、その臨在をもって私たちの恐れに立ち向かう御意思を示しているのです。私たちは不安がなくなるのを待って従い始める必要はありません。神が私たちの前を歩いてくださるのを信頼して行動するのです。
恐れが信仰より安全だと感じる時、思い出してください。主があなたの先を行かれることを。主はあなたを置き去りにされたり、ないがしろにされたりしません。だから、あなたの勇気はあなたの決意ではなく、主の揺るがない愛に基づいていることを。ティモシー・ケラーが言っているように「勇気は恐れの不在ではなく、信仰の存在であるのです。」
著者:グレートリー・デイミアン Damian Grateley
