宗教と無宗教の罠から逃れる

あなたは自分の行動によって神の愛を感じる度合いが上下していると感じたことはありませんか?  誠実に祈り、よく奉仕し、力強い説教をした日には、安心感を覚えます——まるで神が微笑んで見守ってくれているかのようです。

しかし、罪に陥ったり、祈りを怠ったり、宣教の働きが果たせなかった日には、神から遠く離れていると感じ、恥じ入り、さらには自分には価値がないとさえ思うのです。

日本における文脈化とは?

ある日本人牧師が宣教活動を始めたばかりの頃、来日したばかりの宣教師にこう聞かれました。「なぜ日本では多くの教会が、アメリカの1970〜80年代ごろの礼拝スタイルを2000年代になった今でもやっているのですか? 日本の文脈に合わせてこなかったのですか?」

そう聞かれてどう答えようか戸惑った牧師はその後、他教会の牧師先生や宣教師たちと交流するうちに、その疑問の答えにつながるようなもう一つの疑問に辿り着きました。

変化していく文化との関わり

最近、成人した娘からこんなことをよく言われるようになりました。『お父さん、若い子たちはもうその言葉は使わないよ』。最初に聞いた時は、単純に『ああ、次世代の流行語があるのかあ』という程度に聞き流していました。でも何度も言われるうちに自分の持っている文化や考え方がもはや通用しなくなってきていることを実感するようになりました。自分としては多様な文化に興味があるし、旅行で異文化に触れることはもちろん、アニメ、漫画、ゲームなどのサブカルチャーや、音楽もさまざまなジャンルに触れてきたつもりです。ですが娘のコメントで若い世代に取り残されているという感覚を覚えたのです。これをミニストリーに当てはめてみると、どうでしょうか?

宣教地での協力関係 (3)

私がまだクリスチャンになったばかりの頃、私を導いてくれたのは賢い兄弟でした。フルタイムでミニストリーに携わり数十年、いくつかの厳しい教訓を学んだ彼は知り合ったばかりの頃、私にとてもいいアドバイスをくれました。「誰かクリスチャンのパートナーを決めたいなら、まずその人と『デート』してみてからだね」と。たとえクリスチャン同士でも、相手をよく知りもせずにすぐ協力関係をもとうとするのはあまり賢明でないと言いたかったのです。相手の性格、賜物、神学的視点、人生における状況、その他多くの要素が、私たちが他の個人とどのようにパートナーになるかを考えるときに重要なのだと。どれも私たちが配偶者を選ぶ(あるいは選んでもらう)前に考慮するような事柄です。

共同体の刷新

キリストに従う者として私たちは、衰退していく文化とその物語に対する単なる傍観者に過ぎないのでしょうか。それとも心だけでなく、私たちのコミュニティをも変革するような信仰の刷新、つまりリバイバル運動を起こすことができるのでしょうか? その鍵は、福音はただ個人にのみ響くメッセージではなく共同体の刷新をも促す、という事実にあります。本記事では、個人における福音による刷新が、どのように教会を活気づけ、その変革へとつながるかを考察します。