宣教地での協力関係 (3)

私がまだクリスチャンになったばかりの頃、私を導いてくれたのは賢い兄弟でした。フルタイムでミニストリーに携わり数十年、いくつかの厳しい教訓を学んだ彼は知り合ったばかりの頃、私にとてもいいアドバイスをくれました。「誰かクリスチャンのパートナーを決めたいなら、まずその人と『デート』してみてからだね」と。たとえクリスチャン同士でも、相手をよく知りもせずにすぐ協力関係をもとうとするのはあまり賢明でないと言いたかったのです。相手の性格、賜物、神学的視点、人生における状況、その他多くの要素が、私たちが他の個人とどのようにパートナーになるかを考えるときに重要なのだと。どれも私たちが配偶者を選ぶ(あるいは選んでもらう)前に考慮するような事柄です。

共同体の刷新

キリストに従う者として私たちは、衰退していく文化とその物語に対する単なる傍観者に過ぎないのでしょうか。それとも心だけでなく、私たちのコミュニティをも変革するような信仰の刷新、つまりリバイバル運動を起こすことができるのでしょうか? その鍵は、福音はただ個人にのみ響くメッセージではなく共同体の刷新をも促す、という事実にあります。本記事では、個人における福音による刷新が、どのように教会を活気づけ、その変革へとつながるかを考察します。

宣教地での協力関係 (2)

もし私が自分の経験を別の都市や国で再現しようとした場合、それはとても大きな過ちを犯すことになるでしょう。私たちの経験には、どうにもコントロールできない要素が数多くあったからです。現地のリーダーたちと出会ったタイミング、経済状況、政治情勢、当時の教会のニーズ、利用可能な資源など、さまざまな要因が絡み合っていました。そのすべては神によって導かれたものでした。例えば、2人の「シェルパ」と出会ったタイミングがもっと早かったり遅かったりしていたら、結果はまったく違ったものになっていたかもしれません。

失敗することを学ぶ

私は12年間かけて、ブルックリンのウィリアムズバーグで2つの教会を開拓しました。そのうち一つの教会は、7年間にわたる長く困難な時期の後に閉鎖されました。これは私の人生で最も苦しく、そして傷ついた経験になりました。もうひとつの教会は急速に成長し今日に至りますが、その教会を去ることは想像していた以上に混乱と孤独に満ちたものでした。前者の教会は失敗で、後者は成功だったのでしょうか? 地域に深く根ざした私の長年の取り組みは、成功と言えるのでしょうか? 貧しい人々を愛し、福音宣教に忠実だった私の粘り強さは成功だったのでしょうか?