最後の日曜日

「対立の回避」「福音による勇気」、そして日本の教会で語られない奇跡について。

日本の牧師なら誰もが、こんな場面を経験しているでしょう。

礼拝後、ある信徒が普段より少し堅い態度で近づき、静かにこう言います。「先生、今日が最後の日曜です。」牧師は驚いて言葉を失います。「どうして? 何かあったのですか?」そして、ゆっくりと重い塊のように降りかかる答えが返ってきます。「実は、数年前にある出来事があって、それがずっと心に重くのしかかっていたんです……」

誠実な恵み深さ

「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」1

霊的虐待(スピリチュアル・アビューズ)が深刻な問題として認識されている今日、「指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」という命令には、ある種の危うさが伴います。誤解を恐れて、この聖句を取り上げるのをためらってしまいがちです。けれども、これは盲目的な服従への呼びかけではなく、指導者と会衆の双方に益をもたらす協力関係への招きなのです。

私たちが見ようとしない「根」

日本には、誰もが尊敬しつつも、誰もその正体を本当に知らない、ある種の牧師がいます。

彼は忠実に説教し、病人を訪ね、苦しむ人々を助言する。「先生」と呼ばれ、その肩書きの重みが、その指導のあり方すべてを形作ってしまいます 。そしておそらく最も危険なのは、彼自身の内面について、どれほど正直でいられるかが制限されてしまう点です。これは批判ではありません。むしろ文化が仕掛けた罠についての観察であり、その罠を解くことができるのは唯一福音なのです。

サラリーマンと「スチュワード・リーダー」

日本には、多くの人が認識しているものの、具体的に言及することはめったにない文化的な現象が存在します。ある男性は、長年にわたりサラリーマンとして働き、日本特有の謙虚さをもって出世の階段を登っていきます。同僚よりも深く頭を下げ、言葉遣いに気を配り、目上の人には敬意を表し、ためらうことなく謝罪するのです。あらゆる社会的尺度から見ても、彼は好感が持て、親しみやすい人物です。しかし昇進すると、何かが変化します。かつては思いやりがあることで知られていたその男性は、扱いにくく、支配的で、距離感のある人物へと変わります。チームは男性の気まぐれを恐れます。部下たちは彼と協力するのではなく、彼を避けて仕事をするようになります。「パワハラ」(パワーハラスメント)という言葉が、日本の日常語として定着したのには理由があります。それは、日本の職場で痛ましいほど普遍的に見られるパターンを的確に表現しているからです。

執事、長老、教会の働き

前回の記事「良い問題と神にかなった解決」に続き、今回の第2回では、執事と長老の協力的な役割について考察します。それぞれに持っている独自の責任がどのように連携し、教会共同体を支え、育んでいくのかを明らかにします。