「説教準備の、もう半分」

このような場面を何度も目にしたことがあります。

神学校を卒業したばかりの若い教会開拓者が、教室で学んだばかりのミニストリー哲学を携えて現場へ送られ、説教への情熱に燃えています。彼の書斎机には注解書が山積みです。 頭文字をそろえた3つのポイントも用意し、聴衆を惹きつける決定的な例話も準備したと本人は確信しています。 講壇へ進み出た彼は、35分間の説教をほぼ自分自身に向けて語ります。もちろん会衆は存在していますが、ただそこに「いる」だけです。

現代社会で信仰に至る道

現代社会に浸透しているのはメディアだけではない。フェイスブックやツイッターなどソーシャルメディアの並外れた成功は、実はもっと大きな潮流が可視化したものだと指摘する声が増えている。フェイスブックはインターネットを広大で不透明なコンテンツから、関係性に意味を見出すネットワーク(インターネット2.0と呼ばれている)へと変化させた。それと同じように人々の人生や信仰への取り組み方も変わってきている。それはもっと社会的になる一方で個人主義は薄れ、何かを信じたり考えたりするより何かに属していることが重視されるようになってきた。

牧師と聴衆 

ここ数年、私は米国内外の学生、牧師、信徒など、さまざまなグループを導いてきました。どれも同じワークショップで、第二サムエル記下11章(「ダビデとバテシバ」の物語)を三つの質問をもとに対話形式で進めていきます。同じ箇所を観察し質問をすることで、この章を理解する上で以下のような三つの側面が私たちにどのような影響を与えるのかを探っていきます。 

「ひとつの方法」

牧師は疲労困憊しています。私自身は毎週教会を導く立場にはありませんが、牧師と頻繁に会う機会があるのでどれだけ先生たちが疲れているかよくわかります。会衆の多くがあちこちに分散していて、中には教会へ戻ってくるのかわからない人もいます。コミュニティーとしてのまとまりがない場合、牧師は何に焦点を絞ればいいのかわからず困惑してしまいます。さらにさまざまな変化に対応するのに果たして自分が適しているかと不安になります。

宣教へ押し出される説教

「自分も福音を伝えたい、何かそういう働きに関わってみたい」と聴衆が積極的に思う。そんな説教があるとしたらいったいどのようなものでしょうか。もし若い説教者が日曜礼拝は単に求道者向けの伝道イベントではなく福音を中心として語る場だと思うなら、この世界で失われている人に届きたい、仕えたいと教会全体が思うようになるためにどんな説教を語ればいいのでしょうか? 具体的な方法を挙げてみましょう。