「説教準備の、もう半分」

 English version is here.

なぜ「本文」には準備万端なのに、

「人」には準備不足なリーダーがいるのか?

このような場面を何度も目にしたことがあります。

神学校を卒業したばかりの若い教会開拓者が、教室で学んだばかりのミニストリー哲学を携えて現場へ送られ、説教への情熱に燃えています。彼の書斎机には注解書が山積みです。 頭文字をそろえた3つのポイントも用意し、聴衆を惹きつける決定的な例話も準備したと本人は確信しています。 講壇へ進み出た彼は、35分間の説教をほぼ自分自身に向けて語ります。もちろん会衆は存在していますが、ただそこに「いる」だけです。

私は愛をもってこれを書いています。というのも、私もかつてその若い開拓者であったからです。神学校を卒業したばかりの若い彼らが持つ熱意は、管理すべき問題ではなく、磨かれるべき賜物です。聖書への愛は本物であり、説教準備の素晴らしさにもよく驚かされます。しかし教室で「説教本文」のために学んだことは多くても、「人」のための準備は不足しています。彼らは説教者として立ちますが、まだ牧会することを学んでいないのです。

知識や努力が足りないのではなく、正しく教わっていないことが原因だと思われます。若いリーダーは、みことばに仕えるように訓練されています。彼らは、ティモシー・ケラーが語るあと半分のタスク-『人々に届けること』に関しては、あまり体系立てて習っていないのです。

私はケラーに対面で会ったことはありません。しかし、自分の説教を磨くのに、彼の著書やオンラインの説教は最高の助けとなりました。ケラーの多くの説教録音を聞くことで、私が初期の頃に講壇でうまくできていなかったことが何か理解するようになったのです。つまり、「説教とは、説教者の考えを運ぶ乗り物ではない」ということです。説教とは、ある場所で、ある人々に向けて届けられる「奉仕」なのです。この確信が深く根ざすまでは、説教者は、自分がまだ理解しようとしてこなかった会衆に向かって、講壇から語り続けることになるでしょう。 


タスクの半分はうまくできている 


ケラーは説教に関する彼の著書「懐疑的な時代に信仰を伝える説教(Preaching: Communicating Faith in an Age of Skepticism)」において二つの動きについて触れています。


みことばに仕える: 忠実、かつキリスト中心の、聖書の解き明かしであること   

人々に届ける: 特定の時、特定の会衆のためにその解き明かしを文脈化する、訓練された牧会的な働きであること


多くの神学生は最初のタスクについては十分に訓練を受けており、比較的うまくこなします。 しかし、ケラーの論点は明らかです。文脈化は、説教の脚注として考えるようなものではありません。文脈化こそ、残り半分のタスクなのです。


使徒パウロはこのことをよく理解していました。アンティオケの会堂でユダヤ人に説教した際、パウロはみことばとイスラエルの歴史に基づいて語りました。(使徒の働き13:16-41)異邦人の哲学者の前で語る時には、彼らの詩や祭壇のことから話を始めたのです。(使徒の働き17:22-31)同じ福音ですが、抜本的に異なるアプローチを用いました。パウロは会衆をよく研究していたのです。口を開く前に、こう問いかけていました。「自分の前にいるのはどんな人々だろう? そして、彼らはどんな問いを抱えているだろうか?」と。 


説教者は時折、このような疑問を飛ばしてしまいがちです。疑問に向き合う前に、答えを持ってやってくるのです。ですから、彼らの説教は、例えどれほど釈義的に正しかったとしても、他の誰かに宛てられた手紙のようになってしまいます。そう、届きはしても、実際には受け取られなかった手紙のように。


アイデンティティの問題  


この表面上の問題は、深い根を持っていることがあります。「自己を忘れる自由 真の喜びに至る道 (In The Freedom of Self-Forgetfulness), 」においてケラーは、評価を求めて働くミニストリーの有害なパターンをこう述べています。そのような説教者は『自分を証明するのに必死であるか、他者にどう映るかということで頭がいっぱい』なのである、と。2


何年もの間、私が説教を終えて最初にやることは、妻のほうを見て、説教がどうだったかを尋ねることでした。当然ながら、自分のひそかな思いを妻に肯定してほしいと望んでいました。本当は私の方がケラーの説教を聞くのではなく、ケラーの方が私の説教録音を聞くべきだ、と密かに思っていたことをです。 


リーダーのアイデンティティがキリスト、つまりキリストが既に十字架で宣言してくださったことにしっかり根ざしていなければ、講壇は奉仕の場ではなく、オーディションの場となってしまいます。説教は披露の場となり、説教者にとって会衆は、説教者が導くべき群れではなく観客となるのです。


パウロはこの問題に真向から切り込んでいます。「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」(ガラテヤ人への手紙1:10)講壇を自己アピールの場としてしまうことへの治療法は、より良い技術を身につけることではありません。もっと深く福音を体験することです。つまり、説教者が神の御前に立つ時、その朝の説教の質によってではなく、キリストが成し遂げてくださった働きによって与えられる、自由を体験するということです。


会衆を知る  


ケラーの文脈化の定義は、「特定の時と場所にいる人々が感じている人生についての疑問に、彼らが理解できる言語と方法で、聖書から答えを与えること。例え人々が聞きたくないと感じることであっても、拒絶されたとしても、人々が感じざるを得ない、力強い訴えと討論を通してそれを行うこと」です。そのために3 説教者は、注解書に向き合うのと同じ熱心さをもって、会衆について学ばなければならないのです。


ケラーに牧会の召しが初めて与えられたのは、バージニア州、ホープウェルの会衆に向けてでした。彼の教会員の多くは大学教育を受けておらず、ケラーは訓練されたようには説教できなかったのです。彼はその時初めて、自分とは全く異なる生活をし、疑問を持ち、考えることも完全に違う人々に伝えるということを学ばざるを得なくなりました。そして徐々に、会衆の疑問に答えないなら、彼らと繋がることはできず、説教は失敗に終わるのだということを学んでいきます。4 これは後に、ニューヨーク市でケラーが立ち上げた原則となりました。5


実際、どうやって会衆を知るのか  

会衆を知ることは、ミニストリーの技術である前に「確信」です。しかし、この確信は、実際の生き方の中で形づくられなければなりません。演説者から牧者へと自分の姿勢を変えたい説教者のために、いくつか行えることがあります。


聖書箇所と人々の両方から始める 私たちは、月曜の朝に本文を開いてから、週の間に釈義を始め、適用へと移りたくなるでしょう。しかし、それと同じくらい重要な、他にやるべきことがあります。それは、会衆から始め、本文へ戻ることです。忠実な牧師は両方を同時に行います。机の上には注解書を開きながら、心には実際の人々との会話を抱えているのです。涙によって中断されたコーヒーでの会話。礼拝後、出口のそばで立ち止まりながらも、なかなか言葉を見つけられない人との気まずい沈黙。 このようなことが説教準備を邪魔しているのではありません。実に、それこそが説教準備なのです。「この箇所は実際何を語っているのか? そして、私の会衆は何を抱えていて、この本文がそれにどう語っているのか?」この二つの質問は、同時に考える価値のあるものです。

診断的に聞く習慣を養う 説教者が会衆を知るべきであるなら、熟練した聞き手にならなければなりません。自分が話す機会を待っているだけの聞き手ではなく、相手に意識を向け、急がず、相手が話すことを心から大切に扱う聞き手になるのです。実際には、良い質問をするということでもあります。ただ「お元気ですか?」というのではなく、「今週一番大変だったことは何ですか?」と尋ねます。または「聖書を読んでいますか?」と聞くだけではなく、「今、信じるのが難しく感じることは何ですか?」と聞くことです。このような質問をすることで、人々が日曜の朝に抱えてくる本当の思いや恐れが明らかになってくるのです。このような問いに対する人々の答えを聞いてきた説教者は、注解書では得られない言葉を講壇から語る者となります。

説教準備の中に会衆を思い描く 聞くことを始めると、説教者の説教準備そのものが変わります。聖書箇所にとりかかる時、作業を止め、考えるようになるのです。「一番懐疑的な聞き手は、これについて何と言うだろうか? 私がこう言ったら、嘆きの只中にいる人にはどう聞こえるだろうか?」と。準備の時に役立つ鉄則は、会衆の中から34人の、異なる状況や年齢、信仰の状態にいる人々を思い描くことです。そして彼らそれぞれにとって、この箇所のどこに困難があり、慰めや混乱、また罪を感じるのはどこなのか、と問いかけてみるのです。

 

部屋にではなく、人に向けて語る 原稿に埋もれている説教者は、会衆に向き合っているのではなく、原稿に向き合っているのです。 会衆には、その違いがわかります。説教者が顔を上げ、誰かを見て、その人に直接語りかける時、何かが変わります。それは、演説された説教本文ではなく、人に向かって語られた言葉であることがわかるからです。会衆は、ただ原稿を読む説教者ではなく、自分たちに向けて語りかける人を必要としています。

説教する前に、その本文に自分を変えてもらう 説教者はまず、説明する者としてではなく、自分がその本文を必要としている者として、説教本文に向きあわなければなりません。説教準備には、学術的な作業として進められるものがあります。本文を分析・整理し、人々に届けるためにまとめていくやり方です。または、ひざまずいて始めるやり方があります。アウトラインを仕上げるより先に、まず祈りをもって神に問いかけるのです。その問いかけとは、「主よ、この本文を通して、私が他の人に語る前に、主が私に語られたいことは何ですか?」というものです。人々に最も深く届く説教は、最も技術的に磨き上げられたものではないことがほとんどです。深く届く説教は、そのみことばがまず説教者自身に働きかけたことが伝わってくる説教なのです。 


演説者ではなく、牧者へ  


ここでお伝えしたすべてを包括する聖書的イメージは、羊飼いです。ペテロはこう命じています。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。」(ペテロの手紙第一 5:2)また、エゼキエル書34:4ではこのように失敗した羊飼いのことを訴えています。それはすなわち「弱った羊を強めず」、「病気のものを癒やさず」、「傷ついたものを介抱」しない者であると。 神学的知識に欠けた者ではなく、彼らに任された群れの現実の状況に対処しない者に責めがあるとしているのです。


会衆的な説教の逆説はこうなります。「最も聞いてもらいたいと願う説教者は、しばしば最も聞かれない者となる。なぜなら、彼らが最初に耳を傾けないからである」ケラーのように、最も効果的な説教者は、素晴らしい説教者であるより先に、素晴らしい聞き手です。彼らは会衆の信頼を得ますが、それは卓越した話術によるものではなく、彼らの深い配慮によってなのです。 


福音は説教者も変える  


良い知らせがあります。それは、リーダーたちが宣べ伝えるよう召されているその福音こそが、自己中心的な説教へと駆り立てるアイデンティティの問題に対する治療薬だということです。十字架は、説教の最初のひとことを言う前に、すでに説教者の価値を確かなものとしてくれています。もう証明する必要はないのです。そこにあるのは、愛すべき群れと、開くべき本文、また、明らかにされるべき救い主のみです。

イエスご自身こそが模範です。ことばは人となられますが、それは理解されるためではなく、父なる神を解き明かすためでした。(ヨハネの福音書1:18)イエスの受肉の人生そのものが、文脈化の営みでした。人々の心に届くように、神が人の言語や文化に入ってきてくださったのです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネの福音書1:14)それはすなわち、ご自身の聴衆を真摯に受け止め、伝える者として取られた最上の行いでした。


説教者は目的地ではありません。説教者は、自分自身ではなく、その先におられる真の目的地であるお方を指し示すしもべです。自分ばかり気にする演説者から、忠実な牧者へと変えられていく道は、本来、技術の問題ではありません。賞賛を求めることに死に、語る前に耳を傾けることを学び、説教へと自分を召された神を信頼する道です。忠実で地味な、ほとんどの人が見ることのない、会衆のために整えられた準備の働きに、その神が報いてくださるのです。


講壇はステージではありません。それは群れを養うため、牧者へと与えられた贈り物です。そのすべては、救い主の栄光のためです。そしてその救い主とは、たとえ話を話すより前に、まず群衆をご覧になり、深くあわれまれる御方です。(マタイの福音書9:36

  1. Timothy Keller, Preaching: Communicating Faith in an Age of Skepticism (New York: Viking, 2015), Part One (“Serving the Word”) and Part Two (“Reaching the People”).

  2. Timothy Keller, The Freedom of Self-Forgetfulness: The Path to True Christian Joy (Chorley, UK: 10Publishing, 2012), 11–12.

  3. Timothy Keller, Center Church: Doing Balanced, Gospel-Centered Ministry (Grand Rapids: Zondervan, 2012).

  4. Keller, Preaching, 119.

  5. Keller, Preaching, 127


著者:Damian Grateley(デイミアン・グレイトリー)


グレイトリー デイミアン

グレース教会開拓ネットワーク東京のディレクター。妻の詩子との間に3人の子どもがいる。ツイッターのフォローはこちら