私と結婚していて、正直どう?

English version is here.

私たちが避けてしまう問い

私たちの多くは、結婚する時、「これでようやくたどり着いた」と思っています。「この人が私を満たしてくれる。」 「この人が私を幸せにしてくれる。」ロマンチックに聞こえますが、その理屈をよく見てみると、結婚が人生のゴール、報酬、また自分の必要がようやく満たされる場所になっているのです。そして、配偶者が自分を満たすためのリソースになってしまいます。ところが、そのリソースが足りなくなるとどうでしょうか。例えば恋愛感情が薄れ、イライラが積み重なり、理想と現実の隔たりが広がる時、結婚に対して失望的な感情を抱き始めます。

このような結婚像では、特定の問いを口にすることがほぼ不可能となります。もし結婚が「私の必要を満たすためのもの」だとしたら、私と住んでることによる相手の負担・犠牲は何のかと尋ねることは、自分自身を脅かす行為のように感じられます。だから私たちは、その問いを避け、何とかやり過ごそうとします。表面的な平和を保ち、それを真の平和だと自分自身に言い聞かせます。

日本文化には、このような姿勢を表す「建前」という言葉があります。社会において建前は、人間関係の調和を保つために大切な知恵でもあります。しかし、夫婦関係においては、建前がひそかに壁になってしまうことがあります。いつも表面上穏やかにしていると、自分が本当に感じていること、必要としていること、恐れていること、いわゆる「本音」について語り合う機会が失われます。礼儀正しい沈黙の下で、夫婦間の距離は少しずつ広がっていくのです。

また、多くの男性には、「感情をあまり表に出さず、困難は黙って耐えるべきだ」という無言のプレッシャーがあります。ある意味では、それは見事な自制心とも言えるでしょう。しかし、結婚生活においては、そのような受け身の姿勢は平和ではなく、単なる回避と言えます。そして回避することは時間が経つにつれ、夫婦関係を傷つける原因となるのです。

キリスト教が語る結婚は、まったく違うところから始まります。キリスト教が語る結婚は、「自分が何を受け取れるか」から始まるのではなく、「神が私たちを何に招いておられるのか」から始まります。ティモシー・ケラーは、次のように語っています:「恋に落ちるとは、その人を見つめながら、神がその人をどのような存在へと造り変えておられるのかを垣間見ることです。神が造り上げようとしておられるその人の姿を見て、その働きに心を躍らせるのです。そして、その神とその人との歩みに加わりたいと願うのです」1

もしこれが本当なら、結婚における根本的な問いは、「私の配偶者は私を幸せにしてくれているだろうか。」ではなく、「もうすでに、どのように神様は相手のうちに働いておられるのだろうか。そして私は、その働きにどう加わることができるだろうか。」という問いになります。さらに、もっと応えにくい問いは、「私はどう邪魔になっているだろうか。」です。

だからこそ、結婚生活の中で最も大切でありながら、多くの夫婦が何年も避け続けてしまう問いが、「私と結婚していて、正直どう?」です。

  

問わないことの代償

以前、妻が私に「私は、まるで鳥かごの中にいる鳥のように感じる。」と言ったことがあります。妻が言いたかったのは、私が独裁者のような夫だったということではなく、私が、妻が失敗する余地を与えない夫だったと言うことです。結婚して何年も経つまで、私は自分がどれほど妻の成長を妨げていたのか、よく分かっていませんでした。気が付かないうちに、私の心には「当然受ける権利がある」という思いが育っていました。そのため、結婚生活の中心が「与えること」から「受け取ること」へと少しずつ移っていたのです。以前は、妻がしてくれること一つ一つを喜んで受け取っていました。しかし、いつしかそれを感謝ではなく、「妻が当然してくれるべきこと」と考えるようになっていました。その変化は、とても緩やかで、自分ではほぼ気づかないものでした。そして、おそらく多くの人も私と同じく気づいていないのではないかと思います。

夫婦の間に「建前」があると、調和は生まれません。そこに生まれるのは、距離を保つことによる、隔たりです。本当は最も尋ねるべき問いを、お互いに尋ねないまま生きている二人。沈黙が長く続けば続くほど、その隔たりは大きくなり、「今さら話し合うことなどできない」と感じるようになってしまいます。

しかし、この問いを避け続けることには、霊的な代償があります。パウロはエペソ人への手紙5章で、夫婦間の愛は、キリストが教会を愛された愛を映し出すものであると教えています。その愛は、自己犠牲の愛であり、聖化を促し、相手が豊かに成長することを願う愛です。 2 神から与えられたものを、お互いが相手の益のために用いるよう召されています。これは決して受け身の結婚観ではなく、むしろ積極的で、相手を理解しようとし、時には気まずいものかもしれません。 3 結婚は、神が私たちをキリストに似た者へと造り変えるために用いられる最も大切な手段の一つです。しかし、それは夫婦間の現状において互いが正直であることが必要です。

 私たちがこの問いを拒む時、単に気まずい会話を避けているだけではありません。神が私たちに与えて下さる最も重要な機会の一つから、自ら身を引いてしまっているのです。毎日同じ家で暮らし、隣で眠る配偶者ほど、自分のことをよく知っている人はそう多くいません。その人に、自分のことをどう見ているのか、思っているのかを尋ねないのは、自ら目を閉じているのと同じことなのです。

 

この問いができる理由

私たちがこのような会話を持てるのは、福音がすでに私たちの恥の問題を解決してくださっているからです。

私たちが自分自身を正直に見つめるのを恐れるのは、単に世間体を気にしているからだけではありません。それは建前の問題よりも、もっと深いところにあります。私たちが本当に恐れているのは、自分が最も愛する人にありのままの姿を知られ、その上で『あなたでは足りない』と思われてしまうことです。この恐れは現実的で、私たちの心の深いところに根を張っていることが多いです。しかし、福音はまさにその恐れに語りかけます。私たちは、もう自分の評判を守り続ける必要はありません。キリストは、私たちが本来受けるべき最も厳しいさばきを、ご自身の身に引き受けてくださいました。そして今、神はキリストにあって私たちを義と認めてくださっています。だから私たちは、間違いを指摘されても、誇りを傷つけられても、ありのままの自分を見られてもいいのです。なぜなら、自分のアイデンティティをもう守り抜かなくて良いからです。十字架が、その問題をすでに解決してくださいました。

これこそがパウロがピリピ人への手紙2章で語っている「自由」です。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり…」4 本来ならご自分の立場を守る正当な理由を持っておられた方ご自身が、その権利を完全に手放されたのです。キリストが自分のために何を捨ててくださったのかを本当に理解した人は、もはや自分を守り続けるために頑張ることから自由にされます。その人は、「ありのままの自分」を知られても大丈夫になります。自分が間違いを指摘されても、大丈夫になります。そして、配偶者の前に座って、「私と結婚しているって、本当のところどう思うのか正直におしえて欲しい。」と心から言えるようになるのです。

長い間、私は「義認」を神学の教理として理解していました。しかし、それが私自身のものとなったのは、結婚生活で最も失敗した場面こそ、自分が最も義認を必要としている場所であり、同時に神がその機会を最も与えてくださる場所なのだと気づいた時でした。失敗するたびに、私は十字架へと立ち返りました。そして、「神がどのようなお方か」と、「家族との食卓での私自身の姿」との間にある大きな隔たりを、改めて思い知らされました。決して気持ちのよい気づきではありません。しかし同時に、大きな自由をもたらすものです。この自由こそが、夫婦が本当に必要としている対話のための安全な場所を生み出すのです。

どうやってその会話を始めるか

この対話が必要だと納得することと、実際にどう始めればよいかを知っていることは、別の話です。ほんの少し準備をするかしないかで、その時間は実りあるものにも、どこにも辿り着かないものにもなり得ます。

まず、前もって配偶者に「こういう話をしたい」と伝えておきましょう。祈る時間を持ってもらい、あなたのために思いを書き留める時間を持ってもらうためです。疲れ切った一日の終わりに、突然切り出すのは避けたほうがよいでしょう。話し合いの席に着く時、「学びたい」という誠実な姿勢で臨んでください。耳の痛いことを聞いた瞬間は、自分を弁護したくなる気持ちをぐっとこらえ、反論を考える代わりに、伝えてくれている内容を書き記すようにしましょう。

 話し合いの最後に「もっと頑張ります」といった漠然とした決意をする会話の流れではなく、具体的に何を悔い改め、何を変えていくのかを一つか二つ決めるような流れで話を進めましょう。ここで具体的・明確に伝えることは、配偶者に対する思いやりです。「あなたの言葉を、ちゃんと聞いていたよ」ということが伝わるからです。

またこの会話は、配偶者への感謝を書き出すことから始めるとよいでしょう。感謝は、静かに私たちの心の向きを整えてくれると同時に、聞くのが辛い言葉にも相手が耳を傾けやすくなるのです。一番最初の会話が、おそらく一番難しいものとなるでしょう。しかし、その後何回か繰り返される会話によって、夫婦の友情はより深まり、互いに正直でいられる関係が育ち、福音によって誠実に形づくられていく結婚へと変えられていきます。

すべてを変える問い

多くのクリスチャン夫婦は、信仰による共通のことばを持っています。教会で出会い、ともに奉仕し、教会で一緒に祈ります。しかしその一方で、自分たちの結婚生活そのものを福音の光に照らして見つめる機会は、驚くほど少ないことがあります。これは、夫婦だけの問題ではありません。建前の上に成り立つ結婚は、多くの場合、本人たちも気がつかないうちに、建前の上に成り立つ教会を形づくっていきます。福音によって私たちの人生が変えられる時、私たちが最も正直になれる場所から周りへと広がっていきます。そして、夫婦関係ほど私たちの本当の姿が表れる場所はそう多くありません。


この話の中心にある良い知らせは、「結婚生活がもっと良くなる」ということだけではありません。それ以上に、イエス・キリストご自身が私たちの結婚の土台であるということです。値しない花嫁である私たちのために、イエスはご自分をささげてくださいました。そして今もなお、私たちを光輝に満ちた花嫁として愛しておられます。その愛は、「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」5 と聖書が語る愛です。イエスは、私たちがちゃんとした夫や妻になってから愛してくださったのではありません。


神は私たちから遠い存在ではありません。私たちがどのような者であるかを完全に知ったうえで、それでも近づき求め、私たちを見捨てません。

この愛こそが、神が結婚を通して映し出そうとしておられる愛です。その第一歩は、この問いを進んで口にすることです。それは、ただ勇気を振り絞ることではありません。すでに私たちを安全な場所に置いてくださっているキリストの愛を信頼する、一つの信仰の行為なのです。ですから、この問いを尋ねてみてください。語り合える場を作ってみてください。自分を守ろうとする姿勢ではなく、学ぼうとする姿勢で耳を傾けてください。そして、

「あなたと結婚しているって、正直どうだと思う?」


1 Timothy Keller, The Meaning of Marriage: Facing the Complexities of Commitment with the Wisdom of God (New York: Dutton, 2011), 121

2 エペソ5:25-27

3 箴言27:17

4 ピリピ2:6-7

5 Ⅰコリント13:7


著者:Damian Grateley(デイミアン・グレイトリー)

グレイトリー デイミアン

グレース教会開拓ネットワーク東京のディレクター。妻の詩子との間に3人の子どもがいる。ツイッターのフォローはこちら