神の子として生きる

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あなたが神の養子であるという現実を前にして、最近、感動したのはいつですか? クリスチャンは、信仰の基礎として義認を理解することが多いのですが、養子とされるという、もう一つの深い恵みを無視してしまいがちです。養子とは、単なる神学上の概念ではなく、私たちのアイデンティティと神との関係を再形成する現実です。使徒パウロはガラテヤ人への手紙4章4-7節で、それを次のように描いています。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした」とあります。 これは、単純な赦しを超越した恵みであり、神ご自身との親密な関係をもたらすものです。

明確でありながら切り離すことのできない恵み

私たちがキリストにあるアイデンティティを理解するにあたって、まず、義認と養子縁組を区別する必要があります。これらは切り離せない関係にありながら、それぞれ異なる恵みの経験をもたらします。 義認を通して、私たちは正しい裁き主である神と出会い、私たちは義とされ、罪への罰から解放されます。 ローマ人への手紙3:24は、私たちは「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、あたいなしに義と認められる」と述べています。これは、安心感、感謝、自由といった感情を呼び起こす力強い真理です。

しかし、この法廷での出会いを超え、ご自分の家に私たちを招いてくださるところに、神の心があります。養子縁組は、単なる法的立場から親密な関係へと私たちの立場を変えます。ガラテヤ人への手紙4:6、神が「そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました」のです。

聖書は奴隷と息子であることの間に大胆な対比を描いています。律法が私たちを罪悪感の中に閉じ込める一方で、恵みは私たちを自由へと導きます。奴隷から息子への旅路は、ガラテヤ人への手紙4章7節でパウロが表現しているように -「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です」-私たちの日々の歩みに尊厳と目的を与えます。

しかし、皮肉なことに、多くの信者はキリストの相続人としての権利を十分に享受するよりも、「義とされたしもべ」であることに満足しているのです。このことをよく表しているのが放蕩息子のたとえ話(ルカによる福音書15章11-32節)です。放蕩息子のように、私たちは自分の罪を認め、赦しを求めて努力することがよくあります。同時に、私たちは「息子として完全に復帰するに値しない」、「雇い人の一人として扱ってください」という感覚を心に抱きます。放蕩息子は、神に完全に受け入れられることへの私たちのためらいを代弁しているのです。この考え方は、父と子の絆から得られる喜び、自信、安らぎを経験できないような、より深い「孤児症候群」を反映しています。

現実と解放への呼びかけ

最も重要なのは、私たちの養子縁組の保証における御霊の役割です。ガラテヤ人への手紙4章6節によると、御霊は私たちが子であることを積極的に保障し、「私たちが「アバ、父よ」と叫べる親密さを育ててくれます。。この特権は、私たちが子であることによって、名前や肩書きだけでなく、神の神聖ないのちに積極的に応答し、日々の祈りから葛藤に至るまで、あらゆるものへの関わり方を変えるという現実を私たちに気づかせてくれます。

なぜ多くの人が、霊的に重荷を負い、不安や自己中心的な考えに深く囚われていると感じるのでしょうか? 問題は、神の御前における私たちの法的地位にあるのではなく、私たちの生活体験が神から与えられたアイデンティティとどのように関わっているかにあります。 つまり私たちは努力と恐れを特徴とする世俗的なものとは対照的に、神が定めた子としての物語を新たに理解する必要があるのです。具体的には、私たちは自分自身の「孤児的な傾向」をより自覚し、福音の黙想、素直な悔い改め、心を開いたコミュニティなど、恵みによって可能となる訓練を積極的に実践することが必要です。

真のアイデンティティに生きる

養子縁組の旅路を通して、クリスチャンは孤立から親密さへ、不安から自信へ、行いによる義の重荷から赦された義の光へと移行します。 実際、J.I.パッカーが指摘するように、「父とはキリスト教における神の呼び名」です。 私たちの子としての立場は、信仰に新たなアイデンティティをもたらし、神の子として絆を祝い、体現するように私たちを促します。子としての立場を受け入れることは、単に個人的な慰めにとどまるものではありません。それは公的な証明となり、福音の力強さと美しさを私たちの生活を通して示すことになります。

このアイデンティティに生きるためには、子としての立場における成長を促す持続的なリズムが必要です。福音について熟考する時、私たちは神によって赦され、永遠に愛されていることを思い起こします。福音を自分自身に宣べ伝えることは、私たちの心に渦巻く偽りの物語と向き合い、私たちの心を真理と一致させることにつながります。悔い改めの実践は、神の力を経験するだけでなく、深い喜びをもたらします。真の友情を育み、福音という視点から自分の物語を振り返ることは、私たちの共同体を強固にし、暗闇から神の輝かしい光へと私たちを導いてくれる、イエスにある自由を明らかにします(1ペテロ2:9)。

このようなステップを日々の歩みに織り込んでいくと、私たちは単に神の子であることを概念的に理解するだけでなく、それを実際に経験するようになります。私たちの生活を通して、家族、信仰を同じくする仲間、地域社会、そして世界に対して、神の子として受け入れられているという恵みを示せるような者と変えられていきますように。

実践的なストーリー:

長年、長老として活躍してきた方が老年になって体調を崩し、家から出られず車椅子生活をしていました。呼吸器系の病を抱えていた長老は酸素ボンベを使っても呼吸が苦しく、食欲も湧かず、少しずつ体力が衰えていきました。教会のコミュニティは彼を祈りに覚え続けていましたが、ある日牧師が彼の自宅に呼ばれました。牧師が面会した時、長老は「自分が死んだら天国に行けるかどうかが不安だ」という悩みを打ち明けました。長く長老として仕事でも成功を収めた人物でした。牧師は長老に福音とは何か、キリスト・イエスの十字架という贖いによる、ただ一方的な恵みで義の衣を着せられた彼は、長老として社会人としていかに成功したとしても、あるいは失敗したととしても、もうすでに神の子とされていることを説明しました。キリストにある自分のアイデンティティを確認し安心した長老は、その後不調から抜け出し、しばらく家族や友人との時間を楽しみ、天に召されました。

牧師は、キリストにあるアイデンティティは心身ともに人に安らぎと希望を実際に与えることができる、ということを目の当たりにして福音の力に静かな感動を覚えました。と同時にそのアイデンティティが失われた時の危険性にも今一度気付かされたのです

著者:CTCJ共同執筆チーム 

2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。