恵みを蝕む自己正当化

「信仰による義認」だけがキリスト教の基本的な教義ではない。


「自己正当化が生み出すもの、それはよそよそしさ、優越感、否定的な詮索、そして自分はわかっているという思い上がり...自分自身を信じすぎることと、他人を蔑むことはいつも隣り合わせだ。誰かを見下すネガティブな習慣があるなら、それは頭では福音をわかっても心そのものに福音が欠落しているからだろう」(Dane Ortlund)

これを読んだ時、私は恵みの教義を信じながらも、心の中では自分を正当化しようとしていることが、どれだけ微妙で気づきにくいことか、そしてわかりにくいものかをあらためて思い知らされた気がしました。恵みという教えを頭で理解していても、日常的にはそれを実践することがなかなかできないのです。


例えば、どんなに聖書に精通している人でも驚くほど未熟な場合があります。 「成熟している」ということを、おもに神学的知識が正確だとか、聖書的リテラシーが高い(非常に重要ではあるけれど)こととしてしまうのは、実に危険です。 霊的に成熟しているとは、頭で考えられることだけではありません。(もちろん私たちは心を尽くして神を愛せよと命じられていますが)  成熟とは、福音と自分の知識を照らし合わせて生きる、ということでしょう。

「信仰のみによる義認」は、キリスト者になるためのものだけではありません。信仰をもってから成長するためにも必要です。仮に神学校や大学の神学部、教会の聖書研究会で「信仰による義認」について素晴らしい成績をとれたとしても、日常生活で一貫して心に適用されていないことがあります。

自分自身に以下のような質問をしてみるといいでしょう。

誰かに何かを突きつけられた時、私の心はどんな反応をしているだろうか?

自分の過ちや罪に対して、いつも自己防衛的になっていないだろうか?

私は自分自身に甘く、他人に厳しくはないだろうか?

ただひたすらキリストへの信仰のみによる義認とは、つまり「私はもはや自分の内にいる弁護人を呼び出す必要はない。私の中の最も崇高な動機が精査されるときでさえ、自分を正当化する必要はない」ということでもあります。  自分の言葉や行動によって自己を正当化する必要がないのです。 自分の努力を他人のそれと比較することをやめて、十字架上で完成されたキリストの御業に基づいて永遠に私を義とし、受け入れてくださるキリストにだけ目を向けることができるようになることです。 一朝一夕にはできません 。時間をかけて福音を自分に語り続け、忍耐し、恵みの中でつまずきながらも前進するプロセスです。

クリスチャンの人生は往々にして、キリストの義を「意識的に身にまとう」ことが欠けてしまいます。 すると、義の衣を自分で自分のために織る「製造業に従事する」しがちなのではないでしょうか。それこそが神に喜ばれること(義とされるためというより、自分が受け入れられ続けているという実感のために)だと信じ、またそうすることで他人から賞賛されると期待するからです。まさに「私たちの心は無償の恵みを深く疑い、それを自らの業で補おうとする傾向が(無意識にさえ)ある」   (セルジュ-グレイス・アット・ザ・フレイ-第2版; J.W.Long Nov.2011)のです。

クリスチャンが罪について考えるとき、多くの場合、道徳的な観点からのみ考える傾向があります。 つまり、いわゆる明らかに「ひどい」罪を犯さなければ自分は大丈夫、安心できると考えます。そのように私たちが自己を正当化しようとする態度について聖書はなんと語っているか、それに目を向けるためにも恵みが必要です。 イザヤ書では、私たちの自己正当化は神の目には汚れた衣のように映ると言われています。「私たちは皆、汚れた者のようになり、私たちの正しい行いはすべて汚れた衣のようになった」(イザヤ64:6)

イエスのたとえ話に出てくる宗教的なパリサイ人が、取税人と比べると自分はまだ良い(清潔な)人間だと考えたのは皮肉なことかもしれません。それは、自分の宗教的な見かけと職業が、パリサイ人に誤った自己肯定感をもたらしたからです。その結果、取税(当時は汚れた職業とされていた)に対して優越感を抱いた彼は、自分は「他の人とは違う」、あるいは「取税人のようではない」と心から信じていたのです。(ルカ18:9-14)ここに根本的な問題があります。


同様に、私たちは恵みの福音を忘れると、誰かの専門性、服装、職業、人種、文化、あるいは神学の違いなどに関連することに、特に彼らが私たちの道徳規範や基準に合っていない場合、一瞬白けてしまうことがあります。 放蕩息子のたとえ話に出てくる兄のように、恵みの福音を忘れた結果、他人に対し恵みをもたず厳しく扱いがちです。   特にクリスチャン歴が長いと、霊的に高慢になり、御父に無条件に受け入れられ愛されている息子や娘のようではなく、不運な奴隷のような生き方や話し方をしてしまいがちです。  

新約聖書でパウロ(元パリサイ派)は自分の宗教的な業績や地位をすべて「キリストを知っていることのすばらしさのゆえに」(ピリピ3:8)「ちりあくた」だとしています。  現代風に言えば、「排泄物」「糞」、つまり一般的に素手で触れないようなものです。まさにキリストの聖さと義に対比して私たちが自己正当化するとどんな姿かを強烈に表した言葉です。 旧約聖書では「月経の布」と表現されている自己正当化は、簡単に言えば、私たちの自己正当化のための最善の努力は、罪にまみれ、聖なる神の前では、触れることのできない、汚れた、完全に受け入れがたいものだということです。 新約聖書では、独善的で堅苦しい宗教原理主義者だったパウロが、改心し「罪人の長」(I テモテ 1: 15)になりました。恵みを受ける者を迫害して回った律法遵守の宗教家パリサイ人が、キリストのもとに来てから、自分の宗教を 「糞」、「排泄物」、「ゴミ」 と見なすようになったのです。 神の聖さと恵みに照らされ、「私は罪人の長だ」と言うのです。  

しかし、イエスのおかげで、あなたの「汚い宗教的なぼろ 」をきれいに洗われ、新しく、はるかに良い衣、つまり義の衣を与えられました。すべては、あなたの身代わりとして死に、あなたの罪のための正当な罰を負ったイエスのおかげです。  そして、このキリストの義は、あなたにも私にもそれぞれに与えられるものです。 自分が何かをして引き換えにもらうものでもないし、もらって当然のものでもありません。それなのに無料で与えられているのです。それは罪を知らない唯一の方の義であり、神に完全に従った唯一の方の義だからです。(IIコリント5:21)私たちはもはや、自分の恥や罪悪感を隠すために不潔な布切れを身に着ける必要はないのです。  キリストにあって義の衣をまとったのに、どうしてまたその不潔なボロ布を手に取りたいと思うでしょうか?  私たちは今、新しい人間であり、奴隷ではなく、子としての身分を与えられているのです。(IIコリント5:17)

それが聖なる者となっていく成長の過程です。 宗教と無宗教は両極端で神の聖さを拒絶しています。  宗教は、「私は神にとって十分な存在だ、 神は私の業績に基づいて私を受け入れてくださる 」と言います。無宗教は、「私は私自身の神であり、私の人生の中心で支配し、私自身の人生の方向性を決める」と言います。福音はそれらとは異なり、人生を全く根本から変えるような道です。

神と共に上る道は、下に向かっている

「自分を低くする者は高くされ、自分を高くする者は低くされるからです」(ルカ18:14)。  神の前では宗教さえ十分な聖さはありません。なのに聖くもなく謙虚でもない姿勢で、神の聖さを強く訴えることはできます。これは私の人生にも当てはまりました。神の豊かな恵みが働いて今ではそれほどひどくはありませんが、今でもそういうところがあります。 私の中に宗教的なパリサイ人の種があることを本当に認められるようになるまでしばらく時間がかかりました。 傷つき、とにかく必死だった私がキリストのもとで受け入れられ、愛されていることを知ったのです。当然キリストへの愛と感謝で満ち溢れました。  私は生まれたばかりの赤ん坊が乳を欲しがるように、主の言葉を愛し成長し始めました。  しかし程なく、私は冷たいパリサイ人のように振る舞うようになりました。「私は、少なくとも、あの麻薬中毒者や売春婦、あるいはあそこにいるクリスチャンたちとは違う」と思ったのです。   だから、「あのような」罪人たちを避けていました。正直なところ、彼らと同一視され自分も麻薬をやっていると思われるのが怖かったのです。キリストの義を土台に神から承認されている、そこに憩う代わりに、人々からの非難を恐れていたのです。  個人としての私の聖さには欠けがありました。 

有名なたとえ話(ルカ18:9-14)に出てくるパリサイ人のように、私は神の聖さを本当に認めていなかったのです。  私は恵みによって救われていると公言しながら、神の基準に達していないと思われる人々を鼻であしらうようになったのです。 

しかし神は本当に憐れみ深い方です。  神の聖さを認めれば認めるほど、自分がいかに劣っているかが分かるようになりました。そしてイエスがどれほど偉大な救い主であるかがわかるようになってきました。その恵みは日々、私の中でもっと素晴らしいものになっています。まさに神の恵みは、自分自身、他人、そして世界を見る全く新しい方法を与えてくれます。恵みによって人は自分を、神の似姿に創られた者、自分のために死んでよみがえったイエスに深く愛された存在だという新しい視点を得ます。私には恵みによって与えられた義、自分の道徳的なパフォーマンスに基づかないアイデンティティがある。だから成長できるのです。

1. 神の恵みは、私たちの心を肥大化させることなく、むしろ私たちを引き上げてくれます。

2. 神の恵みは、私たちの宗教的精神を辱めることなく、謙虚にもしてくれます。

3.  神の恵みは私たちのすべての汚れを洗い落とし、最高の衣、つまり御子イエスの義を着せてくださいます。

あなたの一日を思い返してみましょう。あなたがどれだけ最善を尽くしたとしても、だからと言って神の驚くほど革新的な恵みがいらないわけではないことを。そして、あなたの努力が最悪の結果を生んだとしても、神の驚くほど豊かな恵みが届かないほどの失敗ではないということを。* 神の恵みはあなた届き、あなたが今いる場所に現れます。 ある歌の一節にあるように「恵みは私を家に連れ帰る 」のです。その恵みを与える方はただお一人、「特別な方」なのです。

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* 「恩寵の規律」の一節を言い換えたもの。ジェリー・ブリッジズ著「The Discipline of Grace: God's Role and Our Role in the Pursuit of Holiness」(邦訳「聖なるものを求める神の役割と私たちの役割」)の一節から。

本記事は2021年9月8日 聖書の瞑想, 福音の刷新に関するbridgefellowshipブログ記事から許可を得て翻訳転載。

ジョーイ・ゾリナ

元ロックギタリスト。在日20年。インドのキリスト教徒が主流をしめるミゾラム州アイザウルの出身。 ロック・ストリート・ジャーナル(インド初のインディペンデント音楽雑誌)の創刊期に特派員として勤務。イエス・キリストの福音によって劇的に変化するまでは薬物乱用など荒んだ一時期を過ごした。

2004年に故郷の教会から日本に派遣され、2006年に牧師として按手を受ける。 東京基督教大卒。東京下北沢のブリッジフェローシップ牧師。(https://www.thebridgejapan.com