宣教へ押し出される説教

「自分も福音を伝えたい、何かそういう働きに関わってみたい」と聴衆が積極的に思う。そんな説教があるとしたらいったいどのようなものでしょうか。もし若い説教者が日曜礼拝は単に求道者向けの伝道イベントではなく福音を中心として語る場だと思うなら、この世界で失われている人に届きたい、仕えたいと教会全体が思うようになるためにどんな説教を語ればいいのでしょうか? 具体的な方法を挙げてみましょう。

想像を超える約束

これまでに彼の著書の邦訳を何冊か担当した私は、自分のことをまるで毎日劇場に足繁く通う人のようだと思ってきた。観客として最前列に座っているだけでなく、スタッフとして舞台袖に隠れて彼の稽古や演技を見たり、あるいは舞台裏で音響システムやスポットライトを必死にチェックしたりする。観客が舞台上で起こっていることを観てあんなにも息を呑み、ため息をつき、笑い声をあげ、にやりとし、あるいは涙を流すのはなぜなのだろう? それを理解するために私は文字通り劇場中を走り回ってきた。

ティム・ケラー先生を偲んで

10年前、それまで仕えていたカリスマ教会から追い出され、ミニストリーへの自信を失い、挫折し、自らの召命、アイデンティティにさえ疑問を持ち、苦しんでいた私は、「クリスチャンとして本当に聖書に基づいたアイデンティティを持って生きるとはどういうことか」「キリストと福音に本当に根ざした健全な教会、ミニストリー、教会リーダーシップとは何か」と考えるようになりました。

マタイ書、新たな視点

私が福音書、特にマタイの素晴らしさを理解したのは、物語の内容だけではなく、その形式にも意味があることを理解してからだと思います。単にマタイの言葉だけでなく、その言葉の配置、つまり物語の語り方に、マタイのイエスに対する確信が表れているのです。

ある牧師の1週間 (スティーブン・ウム)

ある牧師の1週間 (スティーブン・ウム)

牧師という職業に馴染みのない人には、日曜以外に牧師は一体何をしているのか想像もつかないかもしれません。入院している人をお見舞いに行くとか、事務所で周りの人と話すとか、日曜の説教の導入を考えたりするというイメージでしょうか。実際には、牧師が神からのことばを携えて日曜の朝、会衆の前に立つためには、実に様々な時間的制約があります。とは言っても、それぞれの牧師によってその1週間の過ごし方はまちまちでしょうから私が皆さんに提案するのは、誰にでもできる簡単で効果的な説教準備の方法です。ミニストリーという働きは常にスケジュールに変更が生じます。それを念頭に置きながら、私が一週間どう過ごしているかを紹介し、私たち牧師が説教についてどのように継続的に成長できるかについて具体的な提案をしたいと思います。