なぜ教会を開拓するのか パート2 

教会を開拓する理由 「大宣教命令に忠実に従いたいから」

以下の要素を見てみましょう。

1.新しい会衆には大体ある程度若い世代が集まります。古い会衆には伝統(礼拝時間、礼拝時間の長さ、感情的な応答の程度、説教のトピック、リーダーシップのスタイル、情緒的雰囲気、その他多くの小さな習慣)があります。教会を運営する影響力と経済力をもつような、前の世代から長く携わってきたリーダーの感性のようなものでしょう。そのような慣習をただ守り続けているだけでは若い世代に効果的に届くことはできません。

なぜ教会を開拓するのか パート1

積極的に新しい教会あるいは会衆を開拓し続けること、それは以下の目的のためには最も効果的な方法です。

  1. 都市にある「キリストのからだ」の成長がますます見られるようになる。

  2. 都市にある既存の教会が協力し、継続した刷新とリバイバルが経験できるようになる。

「かつて牧会した教会、参加する?しない?」

以上の質問、愚問でしょうか?

そもそも牧師や教会リーダーにとって、教会に行きにくなんていうことがあるのでしょうか。 

結局、かつてリーダーだったからこそ出席しにくいということなのでしょうか。

不思議なことに、そういうわけでもなさそうです。しかしかつて教会で熱心に活動していたけれど今はそこから遠のいているという人は結構います。あるいは礼拝に出席してはいても「かつてと同じではない」と言います。

なぜでしょう?

考えてみる価値はありそうです。

ルターがいなければバッハもいなかった

マルティン・ルターとヨハン・セバスティアン・バッハ、この二人は実際に会ったことはありません。彼らがドイツで生まれた時期は200年以上も離れているからです。でもルターがいなければバッハも存在しなかった、と思うのです。

恵みを蝕む自己正当化

「自己正当化が生み出すもの、それはよそよそしさ、優越感、否定的な詮索、そして自分はわかっているという思い上がり...自分自身を信じすぎることと、他人を蔑むことはいつも隣り合わせだ。誰かを見下すネガティブな習慣があるなら、それは頭では福音をわかっても心そのものに福音が欠落しているからだろう」(Dane Ortlund)

これを読んだ時、私は恵みの教義を信じながらも、心の中では自分を正当化しようとしていることが、どれだけ微妙で気づきにくいことか、そしてわかりにくいものかをあらためて思い知らされた気がしました。恵みの教義を論理的に理解していても、日常的にはそれを実践することがなかなかできないのです。