教会とソーシャルメディア

書評『Breaking the Social Media Prism: How to Make Our Platforms Less Polarizing』(Chris Bail, Princeton University Press, 2021)

先日、ジャーナリストや学者が集うZoomフォーラムで議論していた時のことです。アメリカ文化の偏向化についてある男性がこう発言しました。「市民の声を弱めて社会的分裂を招くような公共の場を作るなら、ツイッターの右に出るものはないですね。」この一年熱心にソーシャルメディア研究をしてきた有名女性ジャーナリストもこれに同意していました。

私もそう思います。でも、ソーシャルメディアは特に若い世代のマインドセットには深く浸透しています。非常に大きなメリットもあるので、ソーシャルメディアそのものがなくなることはないでしょう。クリスチャンとしてそういう状況をもはや無視することはできませんし、むしろ理解するための取り組みが必要です。

その参考になるのがクリス・ベイル著『Breaking the Social Media Prism: How to Make Our Platforms Less Polarizing』(プリンストン、2021年)です。宗教学ではなく社会科学のカテゴリー(ベイルはデューク大学の社会学教授)に入りますが、ソーシャルメディアの使い方について、クリスチャンにも多くの示唆を与えています。また、最終的に示される「進むべき道」として挙げられる原則の多くは、キリスト教倫理観と一致しています。この本から私たちが学べることを以下に挙げましょう。

エコーチェンバーは問題ではない

ベイルはまず、社会的・政治的な偏向という問題に、ソーシャルメディアがどのような影響を与えているかを取り上げます。一般的には、アルゴリズムが私たちを「エコーチェンバー(反響室)」や「バブル(泡)」に閉じ込め、私たちの側からの視点によるニュースや意見だけを聞かせて分断や過激主義を助長していると言われています。しかしベイルは逆に、政治的・文化的な反対意見(辛辣な悪意あるものに限らず)に日常的に触れることでも、人々が自分の意見をさらに強め、過激になっていくという研究結果を示しています。

つまり、人は日常的に反対意見を耳にしていても、そこから自分の意見を修正して、よりバランスのとれた穏健派にはならないのです。なぜでしょう。大多数にとってソーシャルメディアは自分をキュレート(公開)する場だからです。そこでの反対意見は自分のアイデンティティーに対する攻撃と捉えられてしまうのです。(31)

ソーシャルメディアは、アイディアよりもアイデンティティーを重視

チャールズ・ホートン・クーリー(Charles Horton Cooley)は、「私たちはさまざまなバージョンの自分自身を表し、それらに対する他人の反応を見ることで、自己の概念を育む」と言います。(49) また、いわゆる自尊心を築く必要がありません。私たちの自尊心やアイデンティティーは、おもに私たちを見た外部の声が作り上げるからです。

クーリーの「looking-glass self」という概念は、私たちが「神に似せて作られた」「神を反映するように作られた」という聖書の教えと、実に親和性があります。鏡は光を反射するだけで、光自体を生み出すことはできません。同じように私たちも外部からの評価を必要とします。

かつて、多くの人のアイデンティティーは、神、家族、地域、国にどれだけ貢献したかによっていました。家族や隣人が自分に何を期待しているかを知って、自分の行動について否定的、あるいは肯定的な意見が示される。そしてその期待に沿って生活を整え、顔の見えるコミュニティーから定期的に検証され承認されてアイデンティティーが確立しました。

しかし、流動的、個人主義的、癒しやテクノロジー中心の文化において、私たちは顔の見えるコミュニティーからどんどん離れていきました。ますます世俗化する現代社会では、もはや神や信仰がアイデンティティー確立のための手段にはなりません。人間関係は希薄になり、アイデンティティーは以前よりもろくなりました。現代社会は癒し中心になり、私たちに自己の内面を見つめ、アイデンティティーを築き、自身を正当化するように促します。しかし、人間にとって関係性は必要不可欠なので、特にチャールズ・テイラーのようなパイオニア的哲学者たちは、自分でアイデンティティーを築く社会は実現不可能だとも言います。

ともあれ定期的に反対意見を聞いても、私たちは自分の意見を調整してよりバランスのとれた穏健な立場を取りません。それはまさにソーシャルメディアが自分自身を公開する場だからなのです。

ツイート

社会的に孤立し、アイデンティティーが明確でない場合、人はどのように自己肯定感を得るのでしょうか。ソーシャルメディアは、自分のプレゼンを管理し(人と毎日顔を合わせて生活する必要がない)、それに対するフィードバックを今までにないほどの規模とスピードで得ることができ、(51)さらに、自分が選んだ(そしてできるだけ大きな)コミュニティーから肯定されるために、自分のアイデンティティーを常に調整し公開できる場所です。

つまり、ソーシャルメディアは、アイディアを発表し議論することが中心の場ではないのです。むしろ、自分自身を定義し、あるグループに所属していると知らせるための場所です。また自分とは違う、反対派と関連付けることによって、他者のアイデンティティーを割り出す場所でもあるのです。ソーシャルメディアが「悪意のある読み方」という技術を構築したのはそのためです。つまり、人の言葉をできるだけ不親切に解釈するのです。そこには、その人の主張をできるだけそのままで理解し、応えようとする努力はありません。むしろ、その思想家を恥ずべき「アウトグループ」と結びつけることが目的なのです。

ソーシャルメディア上で行われる議論は、決してこういうものだけではありませんが、こういったダイナミクスを背景に議論が交わされていることがほとんどだという点でベイルは正しいと思います。    

ソーシャルメディアでの公開討論は、アイデンティティーの形成、ステータスの追求、社会的結合といった機能を得るため、今まであった方法に侵食してきた新しい文化的手段なのです。(53)

ベイルはここから具体的な二つの結果を示しています。

①ソーシャルメディアは過激派を駆り立て、穏健派を黙らせる。

②ソーシャルメディアは、左右の政治的・文化的な両極端の人々の声を大きくし力を与える一方で、中間層の声を押し殺してしまう。


ソーシャルメディアは過激主義を助長する

ベイルは「過激派」と「穏健派」を客観的に定義します。社会学的に米国の一般的な政治的・文化的見解についてはかなり確立した見方があるので、ベイルが「過激な」意見をもつ人について語る場合、注目するのは数字です。つまり、最も保守的もしくは最もリベラルに属する5~10%を指しています。 

ベイルは、ツイッターユーザー全体の6%が、ツイート全体の20%、そして政治に関するツイート全体の70%を生み出していること、またそのうち6%がおもに極端な見方の人たちであることを指摘しています。(76)これは特に驚くことではありません。しかしインターネット上で声高に過激な発言をする人々についてベイルが行った調査は注目すべきです。

第一に、アーヴィング・ゴフマンの研究結果によると、極端な立場をとる人々は「甘やかされたアイデンティティー」をもっています。彼らの実生活はそれほどうまくいっていません。過激な発言をする人は「オフライン(現実)での生活はステータスがないことが多く」、疎外された経験があります。(56) 

第二に、オンラインでの人格は、オフラインの生活での人格とは大きく異なる(はるかに攻撃的である)ことが多いのです。(56)

第三に、彼らは通常、過激主義者ととらえられれることに強い反発を抱いています。(ただしこれは過激派の5~10%)もし自分が過激主義者というグループの末端、あるいは周辺にいると見なされるなら、当然ながら信用を失います。そこで自分たちの数を誇張する、同時にもう一方の極端な勢力や数をも誇張します。そうすることで幅のある意見が存在しているというスペクトルのイメージが、二つの軍隊が両極端に存在するイメージに置き換わります。このイメージを強めるために、過激派は自分たちの中にいる穏健派を攻撃したがるのです。穏健派を無節操な妥協者、あるいは「本当は」相手からの隠密だと攻撃することで、文化をスペクトラムとしてではなく、自分たちを来るべき主流の一部として、善が悪と戦う描写で力を得ようとします。(64-65)

ソーシャルメディアは、過激派が現実の自分とは違う自分を演出しようとして深刻に歪んだ社会というイメージを作り出すことを助けます。ベイルがソーシャルメディアを「プリズム」と呼ぶのはこのためで、個人と社会の両方に対する見方を歪めるものです。

ソーシャルメディアは穏健派を黙らせる

穏健派とは、多数派の政治的・文化的見解をもつ人と定義されています。ソーシャルメディアは「過激主義を助長する」だけでなく、「穏健派を黙らせる」ことにもなります。どのようにでしょうか?

まず穏健派は、オフラインのアイデンティティーのほうが強く、より成功し、社会的地位を獲得し、また充実した対面のコミュニティーをもっていることが多いため、インターネット上で失うものが大きいのです。過激派はオンラインでしか地位や所属を得ることができませんが、穏健派は(当然ながら)他人を怒らせるような発言をして、自分のキャリアや人間関係を損なうことを恐れます。つまり、過激派の脆弱なアイデンティティーがインターネット上で大いにカバーされる一方で、穏健派のアイデンティティーは逆に脅かされるのです。

第二に、ソーシャルメディアが歪んだプリズムなので、穏健派は「中道がないから、話すだけ無駄だ」という印象をもってしまいます。ベイルは、「偽の偏向」(「自分と他の政党の人々との間のイデオロギー的違いの大きさを過大評価する傾向」[75])が急増している一方で、政治的見解の分布はそれほど変わっていないと言います。統計的には政治的穏健派(あるいは「リベラル」と「保守」の意見をミックスした人々)は減少していません。

第三に、これまで見てきたように、穏健派は穏健派というだけで激しく感情的に攻撃されることが多いのです。過激派は、自分の選んだアイデンティティーを支持する政治的現実というイメージを作り出すために、穏健派を激しく攻撃をする必要があるのです。穏健派が攻撃されるのは、「悪意のある読み方」(発言を最悪の方法で解釈すること)をされるか、自分が認識していない、あるいは所有していない社会的な位置やアイデンティティーを当てはめられるからです。例えば、「お前はただの[白人至上主義者や文化的マルクス主義者]だ」とか、「[X]であるお前には[Y]について話す権利はない。[Z] you!」といった具合にです。

新しいプラットフォームを作る

私たちが学んだことをまとめてみましょう。

①ソーシャルメディアは過激主義を助長し、穏健派を黙らせる。アイディアの交換ではなく、アイデンティティーの創造の場となる。

②ネット上の過激主義は社会的現実を歪める(過激である)、ネット上のペルソナは個人の現実から切り離されていることが多く、「ソーシャルメディアのプリズムは必然的に見るものを歪め、多くの人にとって自己価値の妄想を生み出す。」(66)

これらが深刻な問題なのは、ソーシャルメディアが自らを新しい「公共の場」として提示しているからです。つまり、文字通り公共の場である集会や町内会、新聞や印刷出版といった意見交換や議論の場として、自らを置き換え提示しているのです。ソーシャルメディア側がそう見せかけているだけでなく、ジャーナリストも学者もそのように受け止め、ソーシャルメディア上で大きな存在感を示しています。つまり、最も強力な文化的「門番」たちが、ソーシャルメディアを社会的・個人的な現実を示しているものととらえているのです。しかし実際にはその逆で、現実は歪められています。直観的に言っても、また多くの研究からも明らかです。

ソーシャルメディアは、過激派が現実の自分とは違う自分を演出するために、著しく歪んだ社会のイメージを作り出すのに役立っている。

どうすればいいのでしょうか? 最後の2章では、ソーシャルメディアが崩壊し、より健全なものがそれに取って代わるだろうと単純に考えるのは非現実的だという慎重な答えが示されています。一旦やめても、多くの人は結局はソーシャルメディアに戻ってしまうことも示されています。

代わりに、アイデンティティーではなくアイディアが実際に議論されるようなソーシャルメディアのプラットフォームをどうつくるか、非常に暫定的ではあるものの、ある提案が示されています。(第9章「A Better Social Media」参照)

彼のような提案をしている人たちこそ応援すべきでしょう。例えば、そのプラットフォームでは、「いいね!」カウンターの代わりに、相手が受けいれられるような価値観を使う、相手の立場を認める形で述べる、といった投稿に報酬を与えるメーターが設置されます。(129)そういったプラットフォームでは、双方が公正で理にかなっていると思える投稿に、報酬や承認を与えます。

 彼の提案には、クリスチャンとしても興味をそそられます。宗教的、文化的、政治的な意見を議論し、現在のソーシャルメディアの歪みを超えた空間を生み出せるでしょうか? どうやらできそうだと私は思うのです。

ソーシャルメディアのプラットフォームをハックする

 第8章で、ベイルはソーシャルメディアが偏向ではなく説得の場に向かうと考えられる原則がいくつか示されています。私が以下に挙げる5つの原則は、聖書の中に驚くほどの類似点がいくつかあります。今、私ができるのはその類似点を挙げるところまでです。

  1. まずは集中して聞く。(例ヤコブ1:19-「聞くのは早く、話すのは遅く」) 誰かとすぐに関わらないようにしましょう。その人をフォローして、しばらくの間その人の話に耳を傾けてみます。相手の意見を最大限好意的にまとめ、相手の話の中から価値あるものを見つけられるように努力しましょう。

  2. 彼ら自身の語彙や権威を使う。(使徒17:23、28参照)使徒17章でパウロがストア派とエピキュリアン派の哲学者に向けて行ったスピーチでは、彼らの思想的リーダーであるエピメニデスとアラトゥスを引用しています。また、ヨハネの福音書1章1節では、ギリシャ語の哲学用語である「ロゴス」を使っています。

  3. 彼らを批判するときには、その世界観の中心にあるものを受けとめましょう。(例 使徒17:29; 1コリント1:22-24) 説得しようとしている人々の世界観を土台にして、「その世界観に共鳴する」(110)という方法で議論しましょう。「すべて正しいのは私、あなたたちは間違っています」ではなく、「あなたたちはこう信じています。すばらしい。でも、それならなぜこれも信じないのですか? それは…」という姿勢です。使徒の働き17:29で、パウロが言っているのはこういうことです。「もし、あなたがたの哲学者たちが言うように神が私たちを創造したなら、どうして私たちが作った偶像によって神が崇拝されるのでしょうか?」また、彼がユダヤ人とギリシャ人の両方にどのように福音を提示しているかにも注意しましょう。パウロは、彼らの文化的目標を特定して肯定します。それからその目標を達成するために彼らがとっている偶像崇拝的な方法に疑問を示し、彼らの最も深い願望がキリストにあって満たされるように再調整するのです。

  4. 進んで自己批判をしましょう。(マタイ 3:2: [バプテスマのヨハネ] 悔い改めなさい!) 自分の意見、自分の党や民族の主張をもれなく弁護するとか、この最後の砦は何がなんでも死守する!という姿勢を取らないように。

  5. 自分の考えと自分のアイデンティティーのつながりを緩めましょう。(Ⅱテモテ 2:24-26参照)相手との意見の相違が、自分の存在そのものへの攻撃のように感じられるほど、自分の考えを自分のアイデンティティーにしないように。ソーシャルメディアのプリズムで自分のアイデンティティーが形づくられると、クリスチャンが「この世の型に合わされる」(ローマ12:2)ことの意味がわかるでしょう。クリスチャンのアイデンティティーは行動ではなく、キリストの完璧な行いに基づく、神の変わらぬ愛と尊敬の無償の贈り物です。だからこそ、パウロは第一コリント4:3-4でこう言えるのです。

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

1コリント4:3-4

パウロは、他人にどう思われようと、激怒することも萎縮することもありませんでした。しかし、それは彼自身の自己評価に基づくものでもありません。イエスがパウロの代わりに裁かれ、今、パウロは神がキリストにある自分を受け入れてくれると知っているのです。(ローマ人への手紙全てを参照!)

パウロは(そしてイエスも)相手に鋭く語ることができますが、それは決して怒りに任せたり、自分のアイデンティティーで相手を脅すためではありません。クリスチャンもしばしばソーシャルメディア族に吸い込まれ、プリズムによって自分のアイデンティティーを歪められてしまいます。しかしパウロが言うように、本来私たちは自分の怒りや不快感からではなく、相手が何を必要としているかを注意深く判断し、場合によっては相手に優しく、または鋭く指摘できます。揺るがない安心感を与えるアイデンティティーと自尊心の土台となるものがあるからです。

クリスチャンは当面、ソーシャルメディアから逃れることはできないでしょう。イエスは、クリスチャンがその並外れた愛で注目されるようになれば、それが父なる神からの愛だとこの世の人々が知るようになる、と言っています。(ヨハネ17章、ヨハネ1章)私たちがそれをソーシャルメディア内で実現するには、まだまだ道のりは長いかもしれません。 

少なくともある一部のクリスチャンがインターネット上でその愛を示すことはできるでしょうか? 自分たちの信仰を自信をもって提示し、批判者の意見に慎重かつ謙虚に耳を傾けることができるでしょうか? 新しい公の議論の場の再構築に参加することはできるでしょうか?

そう、私たちにはできます。あなたは、どうしますか?

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著者:ティモシー・ケラー

Timothy Keller

ニューヨーク市でリディーマー長老教会を開拓。ニューヨークタイムズのベストセラー、「The Reason for God」「Prayer」著者。世界各国で380以上の教会開拓に協力したNPO法人リディーマー・シティー・トゥー・シティー理事長。 妻キャシーとニューヨーク市在住。