祈りについて学ぶ

CTCJでは開拓者のために開催される2週間の日本インテンシブの後、主にその参加者向けに継続した学びやトレーニングの機会を提供しています。今回はその一つ、祈りの学び会に参加された下村明矢先生にインタビューしました。先生は以前、CTCJのブログに自己紹介や東京での教会開拓の働きについて寄稿してくださっています。詳しくはこちら

ー今日はよろしくお願いします。まずは先生が祈りの学び会に参加されたきっかけを教えてください。

2020年秋に参加した日本インテンシブで聞いたジョン・ホリ師の講座が素晴らしく、その延長線上の講義と聞いて参加することにしました。

ー祈りの学び会に参加する前と後とではどのような変化がありましたか?

具体的に祈るようになりましたね。そうすることで、ストーリーが見えるようになってきました。祈りが順番に聞かれていることを知り、新たな祈りの課題に喜んでトライできるようになりました。それまでは答えられないぐらいなら、記憶のかなたに希望を押しやった方が安全という自己防衛的な思いもありました。でも、祈りは悔い改めのプロセスで、福音による刷新と分かったんですね。そうなって初めて、答えられるか答えられないかという二者択一を超えて、祈ることができるようになったんです。するととんでもない答えが答えとして与えられるという経験もするようになりました。自分の枠内で理解しなくてよい、納得できなくても放置することができるようになりました

ー自分の枠内で理解しなくてもよい、というのは?

以前は祈りの答えに自分のイメージや期待がありました。でも、神に嘆くことが、実は神への期待の表れ、かつ、これが現実に向き合う対処法だとわかりました。まるでおもちゃ箱をひっくり返したようなまとまらない中でも、形にこだわらず子どものように祈るのでもいいと教えられました。

たとえば教会開拓を初めて2年半、コアグループを築き上げていく新たなステージについてどう取り組めばいいか、ものすごい葛藤があり祈らされていて、私、そういう中で最近自宅で本立てを作っていたんですね。これこれ、(とドアを開けて見せてくださる)ボンドで仮止めし、釘打ちしようと立て上げた瞬間なんとこれがバラバラになってしまった! 木工は長年の趣味で腕に自信もあったから、これがだいぶショックでしてね(笑)…でもふと「ああそうか、それぞれのつながりがしっかりしていないと、教会もこうなってしまうんやな」と、神様から教えられたような気がしました。

最近よく、自分が信じて最初に通い始めた小さな開拓教会の老牧師がいつも繰り返し呟いていた文語訳聖書の詩篇23篇を思い出すんです。「主は我が牧者、我乏しきことあらじ」。ホリ先生に教えていただいたことで、一つの聖句を思い浮かべながら一日を過ごすということがあり、私もそうすることが多くなりました。そうしていると、本当に祈りたかったことが熟成されていくんです。

ーなるほど。ところで先生は家庭と仕事とのバランスはどのようにとっていますか?

3人の娘たちはすでに巣立っており、今は妻と2人の生活。ここにきてやっと妻との関係を、ミニストリーや、その準備以上に大切に考えるようになりました。 結婚してから私たち夫婦は榎本保郎先生の「一日一章」を一緒に繰り返し読んできましたが中断した時期もあったし、気が進まない時もあったんです。今は自分へのケアとして、できるだけ月曜日は何もしないことにしています。つまり週に24時間は仕事をしない時間を作るよう努力しています。そうしていたら、かつては夫婦のデボーションの時間さえストレスに感じることもあったんですが、今は妻との時間が楽しみですし、むしろ癒し、安らぎの時間でもあります開拓者にはやるべきことが多くありますが、神様の栄光はミニストリーの成功にというより、家庭や家族に表れるものかなと思っています。

ー開拓者に限らず、子育て中の働き盛り世代にとって、夫婦、家族で祈りの時間を継続するのはなかなか難しいです。

そうですね、私も52歳までビジネスマンとして海外赴任などもあり忙しかったですし、子供にも期待をかけすぎ、娘の一人とは一度口論が高じて「やるか」「負けへんで」と、ど付き合いの喧嘩までしたこともありました(笑)。我が家は日曜の夜は家庭礼拝するのが習慣だったんですが、その時カインとアベルの箇所から怒りについて示されたんです。自分の怒りについても、娘の怒りについても客観的に理解でき、娘に謝ることができました。関係が難しかった時期、娘は家庭礼拝でもあらぬ方向を向いて身が入ってないように見えました。でも後で聞いたら「そうでもなかった」って言うんです。外から見ただけではわからんもんだなと思いましたね。

ーなんだか励まされます! 先生の座右の銘は何ですか?

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈り、願え」(ピリピ4:6)です。

相手に悪意はないのに、悪く想像して苦しむ傾向があるんですが、ミニストリーを愛するのではなく、まず相手を愛し抜くとが大切だなと。

あとは良いものの偶像化、サタンのすり替えを軌道修正するみことばが「霊の実は、愛、喜び、平安、親切、善意、寛容、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22)です。この中の一つが欠けている時は全部欠けているんです。愛はあっても喜びがない・・・など。それをチェックすることによって、今御霊に生かされているかどうかレビューできますね。

ー今年秋にCTCJでは2回目の日本インテンシブ開催を予定しています。他の牧師、伝道者、ミニストリー従事者に、CTCJのインテンシブ参加をお勧めしますか? 

はい。私の場合、2週間の間に自分の中の偶像を改めて発見し変化があったと思います。かつ、それ以降、自分の信仰生活の中で偶像に気づきやすくなったのでこの恵みを経験してほしいですね。

ー「偶像を発見する」のは恵みでしたか?

インテンシブ期間中、自分の開拓教会についてプレゼンする時間がありました。直前に技術的なアクシデントがあって、色々やってもなかなかうまくいかなくて、それで私テンパってしまいまして…

そうしたら参加者の一人が自分のプレゼンも控えているのに快く手伝ってくれたんですね。それを見て、「自分は一人じゃない、こういう仲間が与えられている」と感謝と喜びを覚えたんです。無事プレゼンを終えて、何だか嬉しくて散歩しながら帰ろうとしていたら自然と足がある方向に向きました。インテンシブの会場近くに東大があったんですが、私はここを受験し落ちてから数十年、この辺りに近づく気がしなかったんです。でもその時はもう普通に散策できました。特別な思いはもうなくて、いくつかある大学の一つくらいの感覚でした。入りたかった大学に対する執着という偶像を具体的に見つけ、それを手放す、そして福音に立つという偶像への対処を具体的に経験できたんです。「ああ、自分の人生は間違ってなかった、今、豊かで満たされている」と。それは恵みですね。

ー祈りの学び会をはじめとするCTCJの働きについて、今後どんな活動や展開を期待していますか?

CTCJの教団教派を超えたこの働きが日本のキリスト教会を引っ張って行くと確信しています。自分こそが正しいと言った排他的なパリサイ人をイエスが非難されたように、教団教派の唯我独尊はイエスが悲しまれること。まだ教派の壁が高い現状、ぜひそれを変えていってほしいですね。

著者:下村明矢

Akiya Shimomura

東京センターチャーチ牧師。1983年大学卒業後、伊藤忠商事に入社、得意の中国語を活かし、北京・上海合計14年間駐在。2011年JTJ卒業後、東京御茶ノ水で、ビジネスマン向け伝道集会を主宰、2014年聖契神学校入学。2019年4月福音自由教会国内宣教師(牧師)任命、2020年より現職。