祈る教会 

 現代の米国キリスト教会はまさに混沌のただ中にあります。文化との戦いに疲れ、次世代は世俗的な誘惑に直面しています。私が住んでいる北東部では、クリスチャンホームの子供たちが成人しても信徒であるケースは稀です。キリスト教文化という拠り所を失った私たちは、一般社会の価値観(ナラティブ)に影響を与えることさえできなくなっています。

 私が好きなイギリスのテレビドラマ「ドク・マーティン」。昨晩のエピソードでは、主人公マーティンが宣教師の夫婦を批判的、利己的、貪欲だと嘲笑していました。それは単に宣教師に対する偏った見方というだけでなく今の若者世代にすでに刷り込まれている偽りのイメージの反映でしょう。

 まるでパウロが奴隷の娘から悪魔を追い出した後、奴隷の所有者たちがピリピでパウロとシラスについてつくりあげた噂のようです。「このユダヤ人たちはトラブルメーカーだ」という偽りの証言によって罠にかかったパウロとシラスは、殴られ足をつながれ牢獄に入れられました。しかしそこで本能的に祈りの交わりをつくり、「キリストの苦難にもあずかり」(ピリ3:10)喜びました。

 キリスト教的な文化背景という支えがなくなった今の私たちは、パウロやシラスのように、ふと気づくと無力で苦しみに満ちた状況に置かれていることがよくあります。そんな時、ゲツセマネの場面をもう一度思い起こすと、祈りはまるで呼吸のようになります。そこに私の希望が、本当の祈りがあるからです。苦しみが増すほど、私たちの教会は祈りの共同体になるからです。

 残念なことに、祈り続けられるクリスチャンはなかなかいません。私たちの祈りのセミナーでは守秘義務を保証した上で、祈りの生活についていくつか質問します。長年の経験を通してわかってきたことは、教会に通う典型的なクリスチャンの約85%が継続的な祈りの生活をしていないことでした。つまり誰かが「お祈りしていますね」と言ったとしても、それは85パーセント、表面的な言葉でしかないのです。それを祈る生活と言えるのでしょうか。

 共同体として一緒に祈りつづける教会ならなおさらです。だからこそ私はこの記事を書こうと思いました。祈りがないことを理解し、その問題に対して、教会の新しいビジョンを中心に解決策を見出し、最後に祈る教会とはどのようなものかを見てみたいと思います。そのためにまずは今から50年前に遡ってみましょう。

教職者が祈らないという問題 

 私の父ジャック・ミラーは、1968年にウェストミンスター神学校の教職に就きました。そしてスイスのラブリにいたフランシス・シェーファーを訪問し、祈りの共同体というものに初めて出会いました。ラブリの生活の中心にあったのは、祈りでした。コミュニティーでの生活は、祈り会を中心に回っていました。祈りの共同体について、エディス・シェーファーは次のように述べています。

いわゆるクリスチャンの生活には以下のような空気が流れています。つまり、祈りが呼吸のように自然で、酸素のように不可欠で、気の置けない人と話すようにリアルで、パンを作る材料や小麦粉に手を伸ばすように感覚的な雰囲気の中にあるのです。祈りが毎日のあらゆる部分に織り込まれない生活は、愚かで荒んでいます。無分別、あるいは、神を呼ぶようにと言われた創造主の存在を信じるあなたの信念が不確かであることの証拠です。i

 父は当時、正統派長老派教会(OPC)の教師、神学教授で、博士号を取得したばかりの学者でした。そんな父にとってさえ、祈りは人生の中心ではなく周辺にあるものでした。父だけに限りません。祈ることに葛藤している牧師は多いのです。私の教派(アメリカ長老教会)のある教職者が祈りのセミナーに3回出席した後、祈りの生活を続けることがどれほど難しいか打ち明けてくれました。最近出席した昼食会では、南部バプティスト派教会の創設者たちから、今までの彼らの祈りがほぼ「教会を建て上げることに費やされてきた」ことを聞きました。

 一般的に牧師にとっての祈りとは、携帯やカレンダーに入れる、具体的な生活のスケジュールとして続けられるものではないようです。また、礼拝という公の場での祈り以外では、各集会の初めに祈るという、どちらかというと公的な祈りが多いので、個人的な深みを見出しにくいでしょう。

 例えば、私は牧師たちとのミーティングで、性的な誘惑についてどう祈っているか、どのように神に助けられたかを具体的に話します。そして「みなさんはどうですか、性的な誘惑についてどのように祈りますか」とお聞きします。水を打ったような沈黙が流れます。そこで別の問いを投げかけます。

 社会で活躍する人生経験豊富なビジネスパーソンを牧会するとき、牧師は苦戦することがあります。ほとんどの場合、そのようなビジネスパーソンの知恵や助けこそ必要なのですが、男女問わず積極的で強いリーダーシップを示す人たちに牧師が困惑することは少なくありません。だからあえて私は尋ねます。「あなたはリーダーシップが強すぎる教会員のためにどのように祈っていますか?」

 またあの重苦しい沈黙が流れます。以上のことからわかるのは、ミニストリーの中で最も困難な二つの分野(セックスと権力)について、どう祈ったらいいのかわからないという葛藤を、実は牧師も抱いているということです。

祈りは朝一番の仕事、また夜の最後の仕事としたい。「1時間後には祈るから、その前にこれやあれをしなければ」といった誤った考えには気をつけよう。そのような考えは、祈りから他のことに目を奪われ、その日の祈りからは何も生まれないようにしてしまうから。

-マルティン・ルター『シンプルな祈りの方法』

(クリスチャンの生活とは)祈りが呼吸のように自然で、酸素のように不可欠で、気の置けない人と話すようにリアルで、パンを作る材料や小麦粉に手を伸ばすように感覚的な雰囲気の中にあるのです

-エディス・シェーファー

 祈りがない、という現象には、いくつかの原因があります。

不信仰(一般的な文化にみられる機能的な無神論が自然に染み付いている)、

唯物論(金銭は祈りと同じ作用をもたらすものの、その支配からは解放されない)、

そしてシニシズム(祈ることでどんな益が得られるのか?)などです。

 しかし単に「罪」が全ての原因というわけではありません。祈りがないこと、それは教会に蔓延している問題ですが、その根源はもっと深いところにあるのです。何かが問題と言うより、むしろ何かが欠けているのです。

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祈りの無さ」とは、その定義

 この図を見ると、教会での祈りの無さを定義しやすいでしょう。どの要素も重要で良いものです。外側の矢印は、教会がどのように宣教し、より広い世界に向かって進んでいるかを示しています。教会の中心にあるのは、牧師、説教、計画、礼拝などです。それぞれ教会に豊かな実りをもたらすためには効果的です。しかし不思議なことに祈りの弱さがあります。

「祈り」の部分を別の色で表すと、もっと聖書的な青写真が見えてきます。

「祈る教会」の図には、「一般的な教会」にある要素は全てあります。しかし中心で機能しているのは、そのどれでもなく、イエスの御霊です。キリストを私たちのもとに届けるという聖霊の働きがあるからこそ、祈りは中心的な存在になるのです。教会にとって肝心なのは、イエスの御霊に注意を向け、教会の祈りの無さを取り扱うことです。なぜ牧師たちは祈りの無さに葛藤するのでしょう。

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 自我、自己主張、あるいは自己鍛錬などがおもな原因ではありません。むしろ原因は、牧師が教会をどのように見ているかという見方にあります。教会に対する間違ったイメージがあるのです。

 聖霊の働きに目を向けない教会生活の中心に忍び込んでくるのは、管理できるもの、その次に、癒しを与える療法的なものです。優秀な管理者は、教会に必要な事実、プロセス、人材に目を向けます。どれも本質的には大切ですが、それだけだと教会の中心にあるものを見落としがちです。つまり、死からよみがえったイエスの復活における聖霊の働き、イエスと聖霊がともに生み出すいのちと力を見落としやすいのです。目がくらむようなその光こそ、他のすべての知恵を形づくるのです。

 この図から以下の三つの疑問が生まれます。

なぜ、イエスの霊はそれほど重要なのか? 

なぜ祈りが御霊の働きの中心にあるのか? 

また、それは教会ではどのように見えるのか?

順番に取り扱っていきましょう。

消えたイエスの霊 

 ラブリの訪問後、1970年夏にスペインでサバティカルを取るまで、父は、なぜ教会生活に祈りが不可欠なのかまだよく理解していませんでした。しかしプリンストン大学で教えていたゲルハルトス・ヴォスの著書を読み、イエスの復活、また御霊が注がれたことによって、イースターの朝にすでに終わりの時が始まっていることに気づきました。ii 私たちはすでに今、聖霊の時代に生きているのです。

 父は、新しい神殿から恵みの川が流れ出るというエゼキエルのビジョンに捕らえられました。(エゼ47)川の水に触れるものすべては生き返ります。川は奥に行けば行くほど深くなります。幕屋での饗宴の終わり、「最後の日々」に注がれる聖霊を象徴するような、大きな桶から水が流れるエゼキエルの幻に注目したイエスは立ち上がってこう叫びました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスはご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。(ヨハネ7:37-39) 

 父と同じ時期に、やはりウェストミンスター神学校で教鞭を取っていたリチャード(ディック)・ガフィンも、このヴォスの著書から同様の発見をしました。父がそれを実践的に掘り下げた一方で、ガフィンは聖書研究として発展させました。どの翻訳でもⅠコリント15:45は、ほぼ以下のように訳されています。

 このように書かれています。「最初の人アダムは生きている者となり、最後の人アダム(イエス)はいのちを与える霊(life-giving spirit)となった。

 しかしヴォスもガフィンも、パウロがここで何を本当に言っているかを指摘しています。

 このように書かれています。「最初の人アダムはいのちを与えられ、最後のアダム(イエス)はいのちを与える御霊(life-giving Spirit)となった」のです。(著者による強調)

 この違いに注目してください。イエスがいのちを与える霊になる、というだけでは、復活したイエスがいのちを与える存在であることはほとんどわかりません。パウロが言っている、いのちを与える霊になるとは、復活したイエスが聖霊と固く結び合わされたからこそ、いのちを与える御霊となったということなのです。

 復活した日の朝、御霊はイエスの死んだ肉体を御霊の体に変えました(Ⅰコリント15:44)。iii この二つの言葉は、パウロが「御霊」と「主」を簡単に入れ替えたり、「主の御霊」という一つの言葉で結びつけたりするほど、一体化しています。iv 御霊はイエスと親密に結びついてますが、それぞれのアイデンティティーを失うことなく、一つの存在として機能しています。ですからパウロはこう書いています。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:17-18、著者による強調) 

 今、聖霊が私たちにキリストを連れてきます。つまり、受肉した神の子キリストが復活したことだけでなく、「存在し続ける」ことも、聖霊の働きによっているのです。不思議なことに、神の子としてのイエスは、全宇宙にその存在を満たしているのに、聖霊によってのみ「反抗」的なこの世界に入ることができるのです。v 

 パウロは繰り返し、キリストの御霊によるいのちと、私たちの御霊によるいのちを結びつけています。もしイエスが御霊の力によって生きておられるなら、私たちもそうです。御霊はイエスのからだを生き返らせ、今、地上のイエスのからだである教会をも生き返らせるのです。では、それが祈りとどんな関係があるのでしょうか?

祈りと聖霊 

 使徒パウロは、聖霊と祈りとの間には、次のような密接な結びつきがあるとしています。祈り▶聖霊▶イエス。パウロはこのようなパターンを何回も説明してますが以下はその一つです。

「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:14-19)

 ここにみられるパウロのあるパターンに注目してみてください。まず父に祈ります。御霊の賜物を求める祈りです。すると御霊がキリストをもたらしてくれます。祈りの共同体では、聖霊が働くための余白を作ります。すると聖霊がキリストを私たちのもとに連れてきてくれるのです。これが基本的に教会にとって最も必要なことです。

 パウロの賜物のリストに違和感を感じるとしたら、これが理由です。明らかに祈ることが上手な人がいる。でもパウロは祈ることを賜物としては言及していないのです。なぜでしょうか? 祈りは教会の生活にとって非常に基本的なものであり、賜物ではないからです。祈りは呼吸です。選択肢の一つではなく、教会生活のエンジンそのものなのです。

祈りの教会の歴史 

 そもそも教会が始まった当初から、祈りは教会生活の基本でした。神の民についての最初に描かれているのも祈る民としてでした。「そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」(創世記4:26)

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 ソロモンは神殿を「祈りの家」として奉献しましたが、それは説教するためではなく、祈りについて祈るための「祈りの家」でした。また彼は、神の民が直面するかもしれない七つの異なる問題(戦争、飢饉など)を描写し、その都度、「彼らがこの家に向かって祈るときは、天で聞いてください」と神に願います。

 イザヤはこの招きを異邦人にまで拡大し、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)としています。ソロモンの神殿のビジョンは、祈りの家として福音書に浸透しています。神殿ではさまざまな行事(捧げ物、献金、教え)がもたれました。イエスはパリサイ人と取税人を「神殿に祈りに行くところだった」と描写していますが、神殿が「祈りの家」でない様子を見たので、その場所を鞭で一掃したのです。

 これと同じ祈りの精神は初代教会にも浸透していました。テルトゥリアヌス(200A.D.)は、次のように書いています。

「私たちはまるで軍隊を結成したかのように集まる。そして、祈ることによって、神への道を邁進する。この力は神を喜ばせる。」(アポロゲティカス)

 同じように、アウグスティヌス(西暦400年)によると、祈りは教会にとってごく日常的なものだったそうです。キリスト者が別れる時「さようなら」の代わりに言われたのは、「私を覚えていてください」、「あなたの祈りの中で私を覚えていてください」だったのです。vi

この「祈りの家」というビジョンが、今の私たちには失われています。最近の牧師の集まりで、以下のような初代教会における教会指導者のための最初の職務記述と思われるものを読みました。

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たちを七人を選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは、祈りとみことばの奉仕に専念します。」(使徒6:3-4、著者による強調)

  教会指導者の職務記述において、祈ることと説教をすることは同じくらい重要です。ある時、私が皆さんに講義し始めて45分経った頃、「みなさん、説教の訓練はどれくらい受けていますか」と尋ねてみました。皆、「数百時間」と答えます。では「祈りの訓練はどれくらいですか」尋ねたら、後ろの方から「45分!」と言う答えが返ってきました。

 それから人の図を見せました。「私たちはこの人のようでしょうか?」

 祈りは教会のミニストリーの一つではありません。いやむしろ、ミニストリーの中心にあります。その祈りを通して、復活後、実質的に結び合わされた御霊とイエスがリーダーとして働きを進めます。牧師の主な役割と課題は、祈りの教会を促進する、祈りの牧師になることです。では、祈りの共同体とはどのようなものでしょうか。祈りの共同体を始めるための7つの原則を交えて、いくつかのケーススタディをご紹介しましょう。

祈りの教会を発見する 

1.祈ることで祈りを学ぶ 

 父はラブリを訪問した後、自分のミニストリーにどれだけ祈りが足りないかに気づきました。特に自分が牧会してきた教会で祈り会がそれほど機能していないことに悩んでいました。「祈り会を死なせたのはだれだろう」と考えていた父は気づいたのです。「ああ、それは自分だった」と。vii

 簡単に言えば、祈り会で父は話し過ぎていました。それまで受けてきた偏った教育は、聖書の研究ほど祈りに時間を費やさないという結果を生んでいました。聖書を教えることは良いことですが、結局、祈るという大切な時間と余白に侵食していたのです。そういうわけで、ようやく父は祈り会で祈り始めました!

 それはまるでサッカーをやったことのない人たちにサッカーボールを投げて、ルールを教え「さあ試合してごらん」と言うのと大差ありません。上手にはできません。初めは失敗ばかりでも、忍耐しながら一緒に祈ることを学ぶ必要があります。

2. 祈りからすべてを始める 

 1970年の秋、私たちは聖霊が今までにない方法で働き始めたのを目の当たりにしました。私たちの小さな教会でリバイバルが始まりました。祈祷会や聖書研究会にはヒッピーや薬物依存症など様々な背景の人々が集まっていました。

 そして1973年、ニューライフ教会を開拓する時、父は祈ることから始めました。最初は祈り会、そして次に教会形成に取りかかりました。それからの20年間、教会の中心は毎週4時間の祈り会でした。牧師たちが中心となって行われましたが、誰でも参加できました。そして、その祈り会は15年以上持続的な刷新の原動力となったのです。

 ですから、あなたが何かを立ち上げるなら、その前に知恵と恵みと謙虚さを神に祈り求める時間を取りましょう。スタッフについて気にかかる事がある場合、私は彼らのために静かに祈り始めます。直接彼らと話す前に、その祈りの期間は時には何ヶ月も続きます。すると私が何も言わなくても神が働き始めるのを目の当たりにすることがあります。

神の恵みがあるところではどこでも、人間は祈る。神は私たちに働きかける。私たちを奮い立たせ、適切な方法で祈ることができるようにするのは神の霊である。私たちは、自分が祈るに値するかどうか、あるいは祈るのに十分な熱意を持っているかどうかを判断することができない。恵み自体がこの問いに対する答えである。神の恵みによって慰められるとき、私たちは言葉の有無にかかわらず祈り始める。

-カール·バルト「祈り 」

3. 共同体として祈ると、自分たちではなくイエスの御霊が働くことが中心だと期待し、そのための余白をもてる 

 祈り会で祈ると父が決断したのは、教会は自分の教えやミニストリーではなく、御霊が中心だと気付いたからでした。復活したキリストをもたらす御霊が中心になるよう、父はますます自分の影響を減らしていきました。

4. 御霊は、人間が管理できる可能性の「枠の外」で働いてくださる 

 では共同体として祈るとどうなるのでしょう? 一言で言えば "サプライズ "です。 予想しなかったことが起きます。パウロはエペソ人への手紙の最後でこう語っています。「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてをはるかに越えて行うこと方」(エペソ3:20) 

 1973年のある夜、父は地元の教会でこう語りました。「福音は誰をも変えることができる。」その場にいた精神科医はこれに対し父を挑発しました。帰宅した父は「福音が誰をも変えられることを、私は本当に信じているのだろうか」と再考しました。そして本当にそうかどうかを確かめるためにフィラデルフィアで一番手強そうな人たちを探すことにしました。

 当時その界隈では、ワーロックスという暴走族がよく知られていました。地元のアイスクリーム·スタンドにたむろしていると知っていた父は、神学生の一人と一緒にそこに出かけて行きました。父はアイスクリームコーンを買うと、いつものようにその辺に集まって飲酒しドラッグを分け合うティーンエイジャーの集団に向かって近寄りました。溶けたアイスクリームを手に垂らしながら父は、大胆にもこう切り出しました。「私はミラー牧師だ。ここにワーロックのメンバーはいる?」 嘲笑が広がる中、「私はミラー博士だ」と言って、父はさらにその状況を悪化させました。嘲笑が収まらない中、そこにいた屈強な赤毛の男(麻薬とアルコール依存症で窃盗犯でもあった)がギャングに向かってこう言いました。「うるさい。俺はこいつを知っている。ヒッチハイクで拾ってくれたんだ。こいつの話は聞いておいたほうがいい」

 彼の名前はボブ・ヘップでした。それから半年ほどで父はボブと親しくなり、夜中に酔って電話をかけてくる彼の話を聞くこともありました。父は辛抱強く何度も彼にキリストを指し示しました。ボブは現在、ロンドンで南アジア人への宣教師として働いています。

5. 祈り会を中心に機能するコミュニティ 

 私のミニストリー「seeJesus」の生活は、祈り会を中心に回っています。月曜と水曜に30分、木曜に1時間、金曜に2時間、と週に3回祈り会をしています。毎週4時間、祈る時間をもっています。最初の15分はオープンマイクで、誰でも何でも祈ることができます。この集会は私たちの生活の中心です。そこでは個人の重荷が皆の重荷になります。

 長い時間祈りに集中することで、ある種神聖な共同体が形成されます。私たちは皆、私たちの大きな仕事すべて(そして些細なことの多くも)聖霊が担ってくださっていると認識しています。ですから、私たちは頻繁に、そういったサプライズ、つまり御霊の予期せぬ働きを祝うのです。

6. 祈り会について考え、コーチングする 

 祈りは具体的というより、スピリチュアルなものと思われるからなのか、普段私たちは作文やサッカーのように祈りを技術的に向上させようとしません。もちろん「御霊」が中心ですから、祈りは自然にあふれてくるはずなのですが、一緒に祈ることについては学ぶべきことがたくさんあります。祈り会の問題点をいくつか挙げてみましょう。

·お互いの祈りに注意を払わずに、次々と話題を変えて行く。

·身体的な問題など、具体的必要と感じたことだけを祈る。

·祈りの課題を共有している間に、実際に祈る時間が少なくなってしまう。

·中心的な人たちで祈りの時間に参加しない人もいて、祈り会に集まる人たちは孤独感を感じる。

 
 私は祈り会についてコーチングし、より効果的に一緒に祈る方法を喜んで提案したいと思っています。祈りの課題が山積みになるだけでなく、祈りながらお互いの話に耳を傾け、祈りに祈りを重ねることで、まるで会話のような時間が生まれるまでには、私たちも時間がかかったからです。

7. 一緒に祈ることは、イエスの死と復活を再現する 

 この最後のポイントが最も重要です。一緒に祈ることがそれほど力強いのは、イエスの死と復活を再現するからです。まず、死について触れましょう。

 私が25年前に家族のために定期的に祈るようになったのは、自分の子育てが家族の中にキリストを生み出していないことに気づいたからです。私は失敗していました。それからの10年間通らされた容赦ない苦しみの中で、私は自分の弱さをひしひしと感じるようになりました。SeeJesusというミニストリーを始めた当初、私は人生のあらゆる面で足りなく弱い者でした。それから19年経った今でも、私たちは資金不足、人員不足に悩まされ、その状況に圧倒されています。週のうち4時間祈ることに費やし、実働時間が削られ、そのためにさらに弱くなっているとも言えるでしょう!
 しかし私たちは弱いからこそ祈るのです。そして弱さに囚われることはありません。弱さこそ、復活という力にジャンプする踏切台だからです。コリントの信徒への手紙1-2章でパウロが指摘しているのはこの点です。コリントの教会が問題に悩まされていたのは、自分たちの弱さがキリストの死を再現していること、またそこから聖霊が働く余白が生まれることに気づいていなかったからです。死は復活のための踏切台なのです。パウロが御霊について言及するとき、彼はいつも、力、いのち、希望、知識、栄光viii の五つの言葉のうちの一つについて言及しています。

 私たちのささやかな働きにおいても、御霊から生まれる、ほぼ継続的でリアルタイムの復活を経験しています。私たちは、神がさまざまな方法で働かれるのを見てきたので、御霊が中心にいて御父への祈りに答え働かれていることを誰もが認識しています。祈りの共同体としてそれに気づくと、その認識自体が燃料となります。答えられた祈りは信仰を生み、それがさらに多くの祈りを促します。

 パウロとシラスが獄中で祈り、歌ったのはそのためです。彼らはイエスの復活を期待し、再現していました。すると地震という現象を通して御霊が働き、パウロとシラスがトラブルメーカーだという誤った噂を覆しました。彼らの小さな祈りの共同体は、最初に彼らがつながれていた牢獄に変化を与え、その後ピリピの町全体に影響を与えました。無力に見えた二人は、この世界でただ生き延びただけではありません。彼らが求めること、考えることすべてを超え、神が働いてくださったのです。

i  Edith Schaeffer, Common Sense Christian Living (Nashville: Nelson, 1983), 205. 

ii Geerhardus Vos, Pauline Eschatology (Phillipsburg, NJ: P&R, 1994), 136–71. 

iii 「霊的な」を「霊的な」に修正したのは、パウロが「霊的な」と言っているのは、宗教的であるとか、簡単に祈るという意味ではなく、私たちが「霊と歩調を合わせている」とか、「霊に導かれている」という意味だからです。私たちは「御霊のうちに」いて、御霊に憑依され、御霊に支配されているのです。小さな "s "は、御霊を個人化してしまいます。

iv 「(受肉者としての)キリストは、霊的な資格と変容を経験し、結果的に両者を同等のものとすることができるほど、霊的に完全な状態になりました。この前例のない聖霊の所有と、それに伴うキリストの変化は、聖霊が生かすというだけでなく、聖霊としてのキリストが生かすというだけでなく、非常に近い一体感をもたらします。具体的には、この一致は経済的なものであったり、機能的なものであったりします。リチャード・B・ガフィン・ジュニア『復活と贖い』。復活と贖罪:パウロの神学の研究(フィリップスバーグ、ニュージャージー州:P&R、1987年)。

v「復活したキリストとしていのちを与える働きは、直接的に行われない。その働きには御霊という要素が絶対に不可欠である。キリストの復活という贖罪史的事実に裏打ちされ、御霊とキリストが実質的に同一に機能するからこそキリストはいのちを伝える者なのである。」 ガフィン、89。

vi Peter Brown, The Ransom of the Soul (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2015), 40.

vii C. John Miller, Outgrowing the Ingrown Church (Grand Rapids: Zondervan, 1986), 94-106.

viii Gaffin, 68-70. 私はガフィンの「力、いのち、栄光」にさらに「希望」「知識」を加えた。


(この記事は『Modern Reformation』誌、Volume 27, Issue 6 (2018): 21-31に掲載されたもので、『Modern Reformation』のウェブサイト(www.modernreformation.org)にアクセスすればご覧いただけます。)

著者:ポール·E·ミラー

30カ国以上で活動している世界的な弟子養成を目指す宣教団体、SeeJesusの創設者であり、エグゼクティブ·ディレクター。イエス、愛、祈りというミニストリーの核となるテーマについての著書が4冊ある。