階級社会でリーダーを生み育てる

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2015年、私はシティ・トゥ・シティ・アジアパシフィックの『インテンシブ』という、インターナショナル教会開拓のトレーニングに参加しました。三ヶ国にまたがって開催されたこのトレーニングの期間中、トレーナーの一人が、弟子訓練のあり方を、まるで一滴ずつ染み込ませるように教えてくれました。これは非常に印象的で、私の想像力を今日もかき立てているのです。

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この教えは「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも充分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります」(ルカ6:40)というイエスの言葉に基づいていました。この聖書箇所は、私のようなアジア人にとって特有のチャレンジであり、私をとりわけ謙虚にさせるものでした。イエスだけが完全な師であり、私のように多くの欠点がありません。しかしながら、リーダー達が(長老の複数制を前提としますが)訓練され成長すれば、リーダーシップを平等にシェアし得るという考え方に、私の心は刺激を受け、アジアにおける弟子訓練について考えさせされました。リーダーの育成には時間と、内面の成長とが最も重要であることはもちろんですが、それに加えてアジアでは、文化的また個人的な壁を乗り越えなければならないのです。

階級社会における文化的な偶像

平等主義の社会においては、人々の平等性というものが崇拝される傾向にあります。アジアなど階級社会では、以前より個人主義が発達してきたとはいえ、まだ高い地位にある人が敬まわれる傾向が強いといってよいでしょう。

たとえば東京には、伝統と現代性が入り混じる独特な文化があります。若い世代で個人主義に向かう一方で、自分個人の益よりグループの益を尊重するべきといった伝統的価値観にも変わらずいます。目上の人に対する接し方などはごく長い伝統に基づいており、多くの職場や学校で、今も昔と同じ状況が見られます。日本の会社で、目上の人々への敬意を表すさまざまな言葉使いは、同僚や目下の人には使われません。教会でも、牧師は伝統的に「先生」と呼ばれ、西洋社会や平等主義の国のようにファーストネームで呼ばれることはほぼありません。こうした環境の中で、十分に訓練された弟子が「先生」と等しくなる。ということは、リーダー達には、自分の下で奉仕する者を育てるだけではなく、自分に代わってリーダーの役目を務めることができるように、他の人を訓練する責任があるのです。

個人の心にある、「力」への闘い

ところが、このような文化的な壁の根元には、一人ひとりの心の偶像が層をなしているのです。おそらく東洋人の方が、西洋人よりも、尊敬とか名誉といったものを強調する傾向はあるでしょう。新しい王が生まれたと聞いたヘロデ王が「動揺した(マタイ2:2~3)」ように、誰かが自分のポジションを奪うかもしれないという思いは人を動揺させます。「力」という偶像のためです。人々が新しい王を探していると聞くなりヘロデ王が恐れを感じたのは、彼が自分の王座に留まりたかったからです。私自身の話をしますと、私は自分より優れた能力を持っている人が現れたら、自分の心の反応に注意するようにしています。頭の中では、自分より優れたリーダーを育てる必要があることを認識していますが、私の心はどうなっているでしょうか。

ビジネスや政治の世界のリーダー達に「力」への心酔があることは、誰もが承知しています。公に認められているといえるでしょう。「偉大な不可知論者」と呼ばれたロバート・グリーン・インガーソルは、「災難に耐えるのは、ほとんどの人ができる。人の正体を知りたければ、力を与えればいい、それが究極のテストだ」と言いました。簡単にいえば、人の心の中にある「力」への野望は、ごく現実的なものだということです。リーダーシップのはしごの上にいる人々だけでなく、誰にとっても。

さらにいうなら、リーダーシップのプレッシャーは、「力」という偶像を表面に押し出し得るものです。何年も噴火を待っている火山のように。リーダーが誘惑とプレッシャーに負けて明らかな失敗を犯すときには、実は心の中ではもう何年もの間、偶像に負けていた…というケースが多いのは、このためです。しかし、福音の良き知らせは、私たちには全てのリーダーの上の、完全なリーダーがいるということです。この方はプレッシャーに屈することなく、ご自身、つまりイエスのようなリーダーを育てることがおできになるのです。

イエスはどのように「力」をお使いになったか

福音書によると、イエスは王であったにも関わらず、力を行使するために来られたのではありませんでした。彼は私たちにご自分の力を与えるため、ご自分を無にされたのです。ヘロデは自分の王座を守り、自分の王国で人々を支配することを願いましたが、イエスは人々をご自分の王国に引き上げてくださるために、天の王座を後にされました。ヘロデは自分の王国を建てようとして、幼い子どもたちを殺しましたが、イエスはご自分の王国を建てるため、自ら王座を離れ、私たちに命を与えるため、ご自分の命を手放してくださいました。彼はご自分の力を、人に仕えるために用い、弟子のうちの最も小さな者にさえ、権限を与えてくださいました。彼が直接選んだのはほんの数人でしたが、その中には、当時のギリシャ・ローマ社会で栄誉と力を崇拝したエリート達の目から見れば、まず成功しないと思われたような者たちもいました。そして最も偉大な王が、仕えるためにこの世に来られ(マタイ10:45)、玉座ではなく十字架に向かわれた。これは最大の反語といえるでしょう。

この犠牲は、力を握る機会を狙っている者たちとはあまりに対照的で、きわ立っています。イエスは力や、地位や、特権を自分のものにする機会を求めませんでした。最も弱い者たちを選び、身をかがめてその足を洗う方であり、人々の内側さえも洗ってくださいました(ヨハネ13:1~12)。強きを尊び弱きを蔑む文化にあって、弱い者を選び、強い者の先に立つようにされました(第1コリント1:27)。彼は彼らを、ご自分に倣う者となるよう訓練し、ご自分の御国の働きのために遣わされました。強者が生き残る原則の社会では、リーダーシップは、強く力のある者たちが奪っていくものです。しかしイエスの王国では、リーダーシップは奪われるものではなく、与えられるものなのです。

福音の働きのためにリーダーに力を与える

ですから、都市においてリーダーシップというものは、まず第一に、「力」という偶像を手放すことから始まるべきです。これは言うほど簡単なことではありません(少なくとも私にとっては)。私たちの心の中で、日々、福音が新たにされる必要があるからです。ピリピ人への手紙2章に見られる主の姿、へりくだり、ご自分を無にされたキリストのご性質が、私たちの都市において福音の働きを動かす燃料です。これは、リーダーに限らずすべての信徒たちが、自分の洞察や持っているものを積極的にシェアし、ときにはリーダーシップを発揮するということを意味しています。同時に、他の人々がリーダーシップにおいて成長することができるように、現リーダーが権限や地位を進んで手放すことをも意味するでしょう。ティム・ケラーは、「ムーブメント」(同じ目的を持つ人々の活動)についてこう言っています。

ビジョンの実現が、個人の力や地位よりも重要である。だから人々は積極的に味方をつくり、柔軟に考え、同じ基本的ビジョンや価値観を持つ人と協力し合う…「インスティテューション」はより縦方向に機能し、”下” からの意見を歓迎しないものであるが、「ムーブメント」はもっと平らだ。共有されたビジョンが人々を一つにし、力を与えているからだ。大事なのはビジョンだ。だから、それを実現するために良いアイディアがある人ならば、誰でも意見が歓迎される。組織の全体に渡ってアイディアが流れ合い、それがより大きな創造性をもたらす。
— ティム・ケラー

アイディアがよく流れるためには、リーダー達は身をかがめてよく人々の声を聞く必要があります。イエスが私たちの声を聞くために来てくださったように。自分の王国を守ろうと骨を折るのではなく、神の御国を建てあげることに平安を見出していれば、他の人々をよく見極め、訓練し、成長を助けることができるでしょう。イエスとその御国が、リーダー達の主要なゴールとなったのです。階級社会に生きる私たちにとって、これが何を意味しているかというと、地位や力や名声を求めて他の人と競争するのをやめ、お互いの成長を共に目指すことができるということです。いい換えれば、イエスは私たちの東洋・アジア地域のアイデンティティを贖い、グループ全体の益(主の御国)を、個人や民族の益よりも優先し、文化的そして個人的な壁を乗り越えさせてくださることがお出来になるのです。


 
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ジョーイ・ゾリナ

ザ・ブリッジ・フェロシップ牧師

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