マーズヒルの興亡

私は、ポッドキャストというものをこれまでほとんど聞いたことがなかった。おそらく、家で仕事ができ、通勤時間がないこと、最近まで携帯電話を簡単に接続できる車を持っていなかったことなどが原因だと思う。

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ところが最近それが変わったのだ。(友人と一緒にポッドキャストをやろうかと思ったくらいだが、それはまた別の話)と言うのも、初めて聴いたポッドキャストシリーズ「マーズヒルの興亡」が実に強烈だったからだ。まるで電車事故をスローモーションで見ているように強烈だった。その後、このシリーズについての解説も聞いて、同様に強い衝撃を受けた。

解説では、大まかに三つのポイントが示されている。第一は「反発」。牧会モデルの押しつけがましさと、そのようなリーダーシップに伴う権力乱用への反発、そして、教会に浸透している男らしさ、ひいては女らしさの構図の恐ろしさ。

第二に、その反発への「反応」として、他人の過ちを非難するという行為には、あまり気持ちのいいものではないものの、自分自身に正当性を与えること、実際そのようにデザインされているという認識。これもまた、なるほどと思わされる。

そして第三に、「福音主義的場面」(というものがあるとすればだが)は、有名人(セレブ)牧師の存在を必要としている、と認めている点。このシステムでは、有名人が「場面」を必要としているのと同じくらい、「場面」が有名人を必要としているとのこと。

しかし、このポッドキャストが示したおそらくもっと重要な点。それを以下に引用する。

「マーズヒルの興亡というポッドキャストで評価できるのは、マーズヒルが引き起こした問題を認めつつ、人々、特に男性の人生に深く、力強く、劇的な変化をもたらしたという事実を覆い隠していない点だ。よく劇的な変化という実(fruitfulness)を求めることが、マーズヒルのケースのような虐待の理由になったと指摘される。虐待自体はもちろん悪である。」

さらに私は以下の一文に衝撃を受けた。

「マーク・ドリスコルとマーズヒルの最悪の問題は、まさにその、人々の人生、特に男性の人生に、深く、力強く、劇的な変化をもたらした、という点である。

ドリスコルが人々(多くの場合、男性)の日常に驚くほど介入し、自宅の地下室に住まわせたり、婚約指輪を買うお金を与えたりして、結婚を先延ばしにする理由を取り除き、人々に対して驚くほどの、そして危険な力を行使していた、という話はよく聞く話だ。そしてドリスコルの男らしさ、そのための特別なビジョンが、男性たちに、いわゆる「ジャンクフード、ケーブルテレビ、ポルノの消費」といった怠惰な生活を止めさせ、仕事や人間関係、ミニストリーへと駆り立てるものだったという証言も耳にする。

一見、それは素晴らしいことじゃないか、という印象を受けるものの、同時に少し怖くもある。実りある人生、という結果を出していたことが問題なのだから。それは、押しつけがましい牧師の強引さと、男らしさ(そして結果的に女らしさ)についての高すぎる基準をもったビジョンから生まれた実りだった。

それではなぜ怖いのか?

そこで示されていた、というより、迫られたのは、一つの選択だったからだ。

第一の選択肢は、実りある人生(fruitfulness)、つまり、深く変えられた人生(時には弟子訓練と呼ばれるもの)だ。実りある人生への道は、クリスチャン生活のパターンを過剰に定め、それを実践させるべく、押し付けがましいほど侵略的でさえある、牧会者の力の行使による。

第二の選択肢は、忠実さ(faithfulness)だ。それは、個人の経験には幅があることを、適切に一般的にとらえ、クリスチャン生活については、ましてや、男性らしさについては、具体的に特定しない選択だ。

しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。忠実さを選択した代償として、(人生の変革という意味で)実りの少ない、つまり劇的な変化は望めないのだろうか、という疑問だ。

例えば最近、男性のための弟子訓練といったビジョンを示そうとしているあるクリスチャンたちの例を何件か耳にした。それは、イエスに従うという、「どの人にも共通した」あり方と、特に男性として具体的なあり方の両方を考慮したものだった。

私の印象では、そういった試みは当たり障りがなく、変わり映えもしない。ドリスコル氏さえ反対はしないだろう。ただし彼から見たら、そういう試みは神学の教科書としては素晴らしいが、あまりにも漠然としていて牧会的な指導としてはさほど希望はもてないだろう。つまり、そのような試みは、実りがない、劇的な変化をもたらさないのだ。

しかしもし本当に、忠実さ(faithfulness)か、実りある人生(fruitfulness)かの、二つしか選択肢がないなら、私は何度でも忠実さを選択し、実りのなさ(fruitlessness)という悲しみに向き合うだろう。

今はそれが唯一の選択ではないことを望み、祈りたい。

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著者

アンドリュー・カタイ

ANDREW KATAY

City to City AustraliaのCEO 。シドニー、インナーウエストにある複数の教会からなるクライスト・チャーチ・インナーウエストの主任牧師でもある。シドニー大学のチャプレンを務めるなど、大学でのミニストリーにも豊富な経験がある。https://www.facebook.com/andrew.katay