職場における「創造的な善」

以下は、City to Cityのポッドキャスト「How to Reach the West Again(欧米世界に再び届くには)」で行われたRedeemer City to Cityのグローバル戦略サービス担当ディレクター、ミッシー・ウォレス氏へのインタビュー(英語版はこちらをクリック)からの抜粋です。ウォレス氏は教会に、各個人が職場など影響を与えられる領域でキリストに似せられたものになるように会衆を整えることを勧めています。

ブランドン・J・オブライエン(以下BOJ:今日はまず公共圏(public sphere)について話し合いたいと思うのですが、「公共圏」という言葉を聞いたとき、多くの人はどんなことを思い浮かべると思いますか? 仕事とは公の場で行われるものだと考えているのでしょうか。それとも、どこに行くにもついてくる日常の延長なのでしょうか。

ミッシー・ウォレス(以下MW):いい質問ですね。「公共圏」についてどう考えられているかわかりませんが、あまり一般的に使われていないという点では不思議だなと思います。この言葉から連想されるのはおそらく、連邦、州、地方、学校、政治など、政府が関与するものではないでしょうか。でも別の角度から考えると、公共圏とは、家から公共の場に出て一緒に仕事をしたり、遊んだり、必ずしも自分が選んだわけではない、自分とは関係のない人たちと交流したりする場のことだと思うのです。私から見たらほぼすべての職場が公共圏ですね。特定の組織で働くことを選択したとしても、おそらくそこで一緒に働く人すべてを選んだわけではありませんから。

BJO: その職場を、まず弟子訓練の場として考えることでどんな利点があると思いますか? 私たちがクリスチャン生活を送る主な場所として職場を考えたらどうなるでしょうか?

MW:まさに今の時代とても重要な質問ですね。かつて北米のある時期、人々はユダヤ・キリスト教的価値観の下にあると仮定して職場に来ていたけれど今の欧米は必ずしもそうではないとケラー博士が指摘しています。私もその通りだと思います。教会や牧師、ビジネス界のリーダーが理解しておくべきことは、仕事が人間の生活にとって最も重要になっているという点です。

ギャラップ社が数年前に「What The Whole Wide World is Thinking」と題して、先進国でも発展途上国でも世界中の都市から農村にわたり、社会経済格差を超えるようなトレンドがあるかを調べました。結果、ギャラップ社史上最大の発見として、人々は何よりも仕事に対して関心を抱いているということがわかりました。ギャラップ社のCEOは、「人間はかつて、愛、お金、食べ物、住まい、安全、平和、そして自由を何よりも望んでいた。この30年で、私たちは変わった。今、人が望むのは良い仕事だ」とコメントしています。さらに、リーダーに関するすべては、人々が自分の仕事に深い関心があるというレンズを通して捉えられなければならないと語っています。ですから牧師や教会が人々にキリストの約束を理解してもらおうと努め、その街に影響を与えたいなら、このレンズを通してする必要があります。牧師や教会の仕事は、キリストの贖いの業を通して福音の約束を理解させる、いわば高速道路の進入路(入口)みたいなものです。

牧師や教会が、人々にキリストの約束を理解させ、そしてあなたの街に影響を与えようとするなら、このレンズを通して助けなければならないのです。牧師や教会の仕事は、いわばキリストの贖いの業を通して福音の約束を理解させる進入路(入口)ですね。

(一方職場は)ノンクリスチャンにとっても聖くされる場、キリストのしたことに照らして自分自身がいかに壊れているかを理解する場になります。聖化される過程の一部として苦しみが働いていることがわかるようになるんです。都市に影響を与えるよう出ていく退出路(出口)です。一週間仕事をしたり、子供の世話をしたり、よく食べ、よく眠り、体を動かした後、どれだけの時間が自分に残されているでしょう。自分の街のために何かをしようと思ってもどれだけ余力があるでしょう? もしかしたら全時間の1%に過ぎないかもしれません。ですから人が時間を最も費やす中心的な場所(ギャラップ社によると仕事ですが)に目を向け、自分の信仰が街にどう影響し変化をもたらすかわかるようになったら、それこそ何らかの勢いが生まれるかもしれません。

BJO:なるほど、深いですね。神の国を築くための宣教に自分らしい貢献がどうしたらできるかを調べるため、教会で霊的な賜物を測るパーソナリティーテストやその他のアセスメントを受けたりしますよね。私の記憶が正しければ、そのテストはほとんど常に教会に焦点を当てたものでした。でも宣教は地域教会だけでなく、いわゆる9時から5時といった職場、その他の場所でも起きていると考えるようにということですね。

MW: そうです、それにそういう考えは地域教会のプログラム自体を捉え直すことにもなるんです。教育にとって信仰とはどのような意味をもつのか、広告にとって、金融にとってどのような意味をもつのかと言ったことを、それぞれが理解するよう促す必要があるんです。創造的な善、つまり創造の時にあった良い状態に照らして、自分のキャリアをどう理解すればいいでしょう。教育や広告業界、金融業界の中で、神のご性質はどう現れているでしょうか? またあなたが牧師なら、信徒はそういった仕事のどういうところに欠陥が現れていると認識しているでしょうか? どうしたらその破れに対抗し、神がこの世界のために備えた救済計画に参加できるでしょう? ですから教会は、個人がそれぞれの業界に入っていくための訓練をする、という役割を担っていかなくてはならないのです。

教会は金融について精通していなくてもいいですし、広告業、配管業、製造業、もっと言えば芝刈についてさえ熟知している必要はありません。でも、教会に通う人々が、それぞれに生きている世界に考える枠組みを持ち帰り、そこでクリスチャンであることにどんな意味があるのかを考えるように助ける、またそういったトレーニングの方法を知っておかなければなりません。それがまさに宣教的でありたいと願う教会の役割なんです。週に5~6日、80人、200人、1,000人の人を送り出し、送り出された場所で、人や場所やものを愛するとはどういうことかを教える必要があるんです。

BJO: 日曜日の朝にどれだけの人が教会に来ているかではなく、平日にどれだけの人がさまざまな職場に送り出されているかで成功を測るとしたら、「インパクトを与える」という意味合いも違ってきます。私たちは教会にあまり人が来ないと落胆するかもしれませんが、一方で「毎週私たちは様々な場所にどれだけの人を送り出していることだろう。彼らはそこで神の栄光を表すような影響力をもっている」と言えば全然違いますね。

MW: アメリカでの伝道について考えてみると、信仰と仕事、とと言うとすぐに十戒を壁に貼って、同僚の男性にキリストについて話すことだと考える人たちがいます。でもほとんどの人は、そんなことができる立場や影響力はもっていません。できるとしたら、ほとんどの場合自分の会社をもっている人くらいでしょう。 

私が提案したい、より効果的な伝道方法の一例を紹介します。私の教会で信仰と仕事についてのトレーニングを受けた人で、おむつやテープの製造ラインで働いている人がいました。彼は作業者のシフトが仕事と休息のバランスに配慮したものでないことに気づきました。日勤と夜勤が頻繁に入れ替わり、健康的な睡眠サイクルが保たれていなかったんです。育児もままならないし時差ぼけのような状態になる。これでは神学的に考えても労働者にとって休息と労働のバランスが適切でないと考えた彼は突然あるプロジェクトを立ち上げたんです。労働組合もこれに参加し、経営陣との話し合いが行われましたが、興味深いことにこのプロジェクトは結局失敗に終わりました。シフトは変更されなかったんです。でもその後、彼のもとには4、5人が来て「ちょっと話してもいいですか」と言ったそうなんです。そして、自分の持ち場以外でなぜそういったプロジェクトを始めようと思ったのか、上司に頼まれたわけでもないのに何があなたを動かしたのかと質問されたそうです。

何かが壊れている状態を見つけ、その影響を受けた人々に配慮しようとする、職場での彼の愛の行為はすべて、クリスチャンとしての信念と、聖書に書かれていることから始まったということを共有でき、とても自然に会話の中で伝道する雰囲気になったそうです。福音を伝えるという会話としては非常に興味深いです。「やあ、同僚、イエス・キリストについて知りたくない?」といった話し方よりもずっと自然で信頼できますよね。

BJO: すでにいくつか言及されていますが、信仰と仕事に関して人々が抱いている誤解にはどのようなものがありますか?

MW: それそれ、よく聞いてくれました! 信仰と仕事について人がどう考えているかは多くの場合、どの教派で育ったか、どの地域で育ったかに関係しているんです。米国なら国内のどの地域で育ったか、他の国ならカトリックが多いかどうかなどが関わってきます。その中で多いのは、「信仰と仕事とは伝道だ」という理解をしている人たちです。そういうグループは「私の職場は私のミッションフィールド(宣教地)」だと理解し、職場の人たちを改宗させ、救わなければならない、キリストの愛を示し、彼らが信仰をもつように導かなければならないと考えているんですね。また、「私の仕事はできるだけ優秀で倫理的な労働者になることだ 」という考えの人たちもいます。倫理観は信仰と仕事の一部です。三つ目のグループは、「私は聖霊と深く対話し、私の仕事を導いてくれるようにしなければ 」と考えています。それはキリストとの非常に私的で縦の関係です。そして、四つ目のグループは、「社会貢献がすべてだ」と考えます。自分の仕事を通して、貧しい人たちを養うことができるだろうか、自分の仕事を通して社会正義を実現できているか、それともその活動をしている人たちに経済的な支援ができるような収入が十分にあるかと考えます。

実は、これらのグループのどれか一つだけで行動すると、福音を切り捨ててしまうことになります。私にとって信仰と仕事とは、福音が仕事のすべてを変える、つまり包括的に、心/コミュニティ/世界といういわば三位一体でとらえます。まず心、信仰は聖霊と深く対話し、自分が聖化される場所であるべきです。それは、あなたとキリストの間に素晴らしい縦の関係がある場所ですが、同時にあなたのコミュニティとの横の関係もある場所です。キリストがしてくださったことに感謝し愛することから、あなたは周りの人々を愛することができます。競争相手を愛することができます。影響を与えられる範囲がどこであろうと、人とどう接するかを考えることができます。あなたが影響を与えられる範囲とは、あなたが共同生活を営んでいる人々、グループのことです。

そして、三位一体の三番目は世界です。あなたが世界についてさらに考えると自分が関わる業界には創造的善があることがわかってくるんです。そもそも自分の業界の何が良いのか、どうすれば業界の壊れたシステムを探し、立ち向かうことができるのか、こういったことを念頭に、信仰と仕事について考えることが重要です。 

私にとって信仰と仕事とは以上のすべてです。自然にできる伝道、倫理観であり、行動です。地域社会にどのように影響を与えるかでもあり、自分の世界にどう影響を与えるかでもあります。神が私たちを成長させるために職場をどのように用いるかということです。それに対する私たちの応答は、仕事における自分の役割を用いて、他の人々を祝福し、暗闇に立ち向かうことです。社会経済的にどこにいるか、どれだけの権限があるかなどによって、日々それがどんなことなのかはニュアンスが変わるかもしれませんが、包括的な、心/コミュニティ/世界という三位一体は変わらないでしょうし、私たちは働くために創られ、その仕事は壊れているという、創造・堕落・救済・回復という聖書の物語が変わることもないでしょう。私たちは暗闇に立ち向かう神の物語の一部であり、神が再び来られるとき、仕事は完璧なものになると思うんです。

それに対する私たちの応答は、仕事における自分の役割を用いて、他の人々を祝福し、暗闇に立ち向かうことです


BJO:「創造的善」とおっしゃいましたが、これはミッシーさんが信仰と仕事について語り、考える際の基本的な前提となるものだと思います。その言葉の意味を教えてください。私たちは創造と善という二つの言葉を知っていますが、この二つを組み合わせて仕事に適用した場合、どのような意味をもつのでしょうか。

MW: 創造は善である、という意味です。創世記に「文化命令」と呼ばれるものがありますが、基本的には、神が人に「出て行って、実を結び、増え、支配せよ」と言っています。私よりずっと学識のある聖書学者から、この言葉は「出て行って、地域社会に繁栄をもたらす」という意味だと学びました。イザヤ書やその他の聖書箇所を見ると、新しい天と新しい地を見るときにタルシシュの船が再び登場します。タルシシュの船は、聖書の一部で商業の悪を象徴していましたが、新しい天地の一部として戻ってきたのです。捨てられたのではありません。聖書は庭に始まり都に終わるので、ここから神が商業に何を意図しているのか、ある程度推測できます。神はこのような様々な領域を意図されました。それがなければ私たちの社会は成り立たないんです。ですからもし神が主権者であること、経済、家族、教育、宗教、教会などの領域を創造するために、あえて私たちを解き放ったことを信じるなら、私たち一人一人のあらゆる破れの中にある神のイメージが、以上のシステムにもあると理解しなければなりません。私たちと同じように、これらのシステムも壊れてはいますが、同時に創造的善をも表しているのです。

金融を例にとってみましょう。金融はしばしば、恐ろしい、貪欲な、世俗的な業界と決めつけられます。仮に金融業界がなかったとしましょう。ヤギの乳と消しゴムを交換するような状況が続いているとしたらと想像できますか? 混乱しますよね? 共同体が繁栄するためには経済圏が発達していなければならないんです。神の善を考えるとき、銀行が神を象徴していると思われることの一つは、多く持っている人から少なく持っている人への資源の再分配です。それが神のご性質の一部だからです。聖書の中にも、イエスの中にも、そのような姿が見られます。銀行もそのような役割を担っていて銀行業は資源を再分配するための組織的な方法なんです。

ですからもし神が主権者であること、経済、家族、教育、宗教、教会などの領域を創造するために、あえて私たちを解き放ったことを信じるなら、私たち一人一人のあらゆる破れの中にもある神のイメージが、以上のシステムにもあると理解しなければなりません。

もちろん、銀行も壊れています。銀行業には欲がつきものです。利益の追求が分配の公平性に影響を及ぼしているのでしょうか? そうです。ある特定の層が再分配から完全に取り残されてしまったらどうなるのでしょうか? どのように対処するのでしょうか? 私にはその答えがすべてはわかりませんし、それを整理してまとめることもできませんが、産業界には創造的善があることは確かです。 

例えば音楽には神の創造性が表れていますし、教育には神の知恵があります。またある人からは、NFL(アメリカのナショナル・フットボール・リーグ)についての分析を求められたこともあります。私は、「どうしよう、NFLの創造的善って何だろう?」と思って元プロサッカー選手の牧師を巻き込みました。「プロサッカーにある創造的善について教えて」と言ったら彼は、「ミッシー、サッカーは楽しいっていうことで地域社会をひとつにするんだ。それは壊れていると思う? 人々は傷ついている? 給料はめちゃくちゃ? ああ、そういうところもあるよね」。でも彼はこうも言ったんです。「地域がひとつになって何かに熱中するのはいいことだ。それは美しい」と。

だから、クリスチャンが自分の業界について考え、どんな創造的善が存在するか、そして、なぜそれが壊れているのか、自分の小さな領域がどこであろうと、その壊れ方を押しとどめる役割を果たせるかどうか考え始めること、そういったことは素晴らしい訓練になると思います。業界によっては難しい場合もありますが、私は創造的善を見出せない業界を見つけるほうが難しいと思っています。

クリスチャンが自分の業界について考え、どのような創造的善が存在するのかを考えることは、素晴らしい訓練になると思います。

BJO: 現在のような経済システムを意図していたかどうかは別として、神がそのシステムを他の人々の繁栄のために発展させることをはっきりと意図していた、それは確かに想像できないこともないですね。そして、私が今与えられている役割は、意図された目的からだいぶ離れているかもしれませんが、それでも最初から意図されていた機能をいくばくかは果たしていると想像することは有益だと思います。


MW:一般恩恵という概念を理解するのにも役立ちます。神の姿がすべての人間の中にあるように、すべての人間の良い行いは、それを受け入れるかどうかにかかわらず、神によるものなんです。「仮にあなたが脳腫瘍になってそれを摘出してもらうとしたら、最高のノンクリスチャンの脳外科医にお願いしたいですか、それとも、それほどでもないクリスチャンの脳外科医に頼みたいですか?」という質問にたとえられます。おそらく最高の先生に診てもらいたいのではないでしょうか。

神のイメージがすべての人間の中にあるように、すべての人間の良い仕事は、それを受け入れるかどうかに関係なく、神のものなのです。

そう考えると人間の良い仕事に対して心からワクワクすることができます。神のイメージがその人の中にある、だから良い仕事をする能力があるのだ、という見方ができるようになるんですね。自分とは違う考えの隣人とも、もっと愛をもち、手に手を取って働くことができるようになります。こういう一般恩恵についての考えが理解できるようになったことは、私にはとても力強い経験でした。どんなことを信じているかはともかく、すべての人から出てくる良い仕事を愛することができるような、解放された感じでした。 

BJO:もうひとつ、ミッシーさんが言われていたことで助けになるのは、仕事は堕落の結果ではないということです。封建的な労働や不当な労働などは堕落の結果かもしれませんが、労働はそもそも人に常に期待されていたものです。エレミヤ書29章に登場するダニエルとその友人たちは、亡命中にも家を建て、庭を作り、地域社会に参加するように命じられています。神の民が繁栄し、他の人々が繁栄するのを助けようとするのを見る限り、仕事は常にそういった繁栄の鍵であるという側面がありますね。私たちはダニエルたちの状況を霊的に美化する傾向がありますが、実際のところ彼らは自分自身と周囲の人々の生活をより良くするために働いているんです。

MW:それはとても興味深いですね。私の教会の牧師がエレミヤ書29章7節「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」について話していたことを思い出しました。つまりこれは「私はあなたをタリバンと一緒に暮らすように送った」と言うようなものだと、かなり強いたとえですけれど、そう説明していました。「タリバンの福祉を求めに行け 」と言っているようなものだと。神がバビロニアで弟子たちに求めたように、周囲の人々がどういう信仰かに関わらず、自分のいる町の福祉を求めることについて、私たちは学ぶべきことがたくさんあると思うのです。

もし私たちが、キリスト教に基づいた世界に住んでいると思い込むのではなく、逆に捕囚の地にいるように生活してみたらどうでしょうか。

それは実際のところどう見えるんでしょうね。以前弟子訓練に関して読んだ優れた記事で、皆がキリスト教的価値観をもっていると仮定するのではなく、自分が部外者だと仮定したらどのように見えるかと言っていました。私たちの前提は、隣人が道徳的に受け入れられないことをしているなら、もてなしたり関係を築く前にそれを非難する必要があるとして行動しています。なぜなら彼らはその文脈では「見知らぬ人(部外者)」だからです。だったら私たちのほうが、キリスト教を土台とした世界に生きているというのではなく、捕囚の地に暮らすという前提で暮らしはじめたらどうなるかなと思うんです。

BJO: 「グローバル・フェイス・アンド・ワーク・イニシアティブ」を通じて行っている仕事と、その仕事を通じて人々に把握してほしいビジョンについて教えてください。

MW: 「グローバル・フェイス&ワーク・イニシアチブ」は、City to Cityの中でも特に信仰と仕事に焦点を当てた部門です。私たちは、教会と個人が、人生のあらゆる側面、特に仕事においてキリストのために宣教的に生き、福音が仕事を含むすべてを変えることを理解できるよう、備え、結び合わせ、動かすことを目指しています。

私たちは牧師を助け、人々が自分の場所から外に出て、教会となり、職場の人々、場所、物を愛し、心、コミュニティ、世界レベルで自分の仕事について考えられるようになることを目指しています。さまざまな方法で実践していますが、私が最も期待するのは、信仰と仕事はキャリアを積んでから取り組むものではない、というビジョンを人々が受け止めてくれることです。また、牧師であれば、人々が十分の一献金を捧げ、教会に十分に人が集まり、ある程度安定した状態になった時点で取り掛かるものではないということですね。つまり、もし最初から自分の信仰が仕事にどのような影響を与えるか理解していないなら、あるいはあなたが牧師なら教会を開拓した瞬間からそれに取り組み理解していないなら、仕事についてそもそもどう考えられるというのでしょうか。 

会衆が関心をもっているのはまさに信仰と仕事なんです。それなのに牧師は教会に来ることを信徒に励ます。むしろ、牧師は会衆の仕事について説教で語ってほしいし、彼らが自分の仕事を通して都市にどんな影響を与えられるか考えてほしいです。仕事によってどんな苦しみを信徒が経験しているのかを考えなくてはいけないと思うんです。彼らの仕事についてブログを書くこともできるでしょう。職場を訪ねてみるのはどうでしょう? 仕事について考える弟子訓練のコースを作ってはどうでしょうか? 信仰と仕事は、サブテーマでも選択科目でもありません。福音がすべてを変えるということを理解し、毎日福音に忠実に生きること、それこそが働くということなんです。

BJO: ミッシーさんが信仰と仕事、教会と世界の関係について説明する際に好感をもてるのは、それが特定の労働者階級や仕事の役割に限定されていないと感じられることです。私は信仰と労働の議論には不慣れで、部外者から見ていると、ある業界の変革や過ちを正すという表現がたくさん出てくると、そのような変化をもたらすには、ある程度の権限や影響力が必要だという印象をもつことがあります。でもミッシーさんのお話を聞いていると、こういった主張は誰にでもできることのように感じられます。とはいえ、そういう会話の中で、さまざまなレベルのリーダーや権限をもつ人たちにとっての特別なニュアンスがあると思うんですが、それはどのようなものだと思いますか?

MW:でも誰もが仕事に行きますよね。お給料をもらっていなくても働きに出ているんです。食器洗い機から食器を出したり、ベッドメイキングしたり、子育てやオムツ替え、地域活動に参加することもあるでしょう。ですから私は仕事とは、休息でも余暇でもないもの、つまり、ほとんどの人がしていることだと定義しています。

権限にはさまざまなレベルがあるとおっしゃいましたが、確かにCEOであれば非常に大きな権限があります。物事がどう動くかについて、多くの決定を下すことができます。一方、工場のラインで働いていて、製品を回転させるのが仕事だとしたら、あまり大きな権限はないでしょう。ラインを動かすことが仕事そのものだからです。でも私は権限というのはあるかないかといったものではないと思います。つまり、権限が多くある、あるいは全然ないというわけではないんです。それは一つのスペクトル上にあるもので、誰もが周囲の人々にある程度の影響力を与えられると思います。自分の周りのコミュニティに影響を与えたり、愛を示したりする能力があるんです。 

多くの場合、ヒエラルキーの低い位置にいる人ほど、勇気を出して、愛のある方法で、壊れているものを指摘することが必要なのです。

製造ラインで作業している人は、左側にも右側にも同僚がいて、休憩時間に同僚に愛を示すにはどうしたらいいか、ということだったらある程度の権限があると思います。心/コミュニティ/世界の三位一体を土台に考えれば、誰しもが心にはアクセスできます。それは、キリストとの関係や、自分がどのように働くようにつくられたのか、どのような犠牲的態度を職場でもつか、仕事による苦しみがどのように自分を聖化するか、仕事においてどのように倫理的に振る舞うのか、などを理解することです。それは心のレベルのことかもしれませんが、コミュニティにも誰もがアクセスできます。仕事で関わる人々というコミュニティで、相手とどのように接するか、福音はどのような意味をもつのか、と考えることができます。世界平和について言えば、組織的な力をもつ人ほど、変化をもたらす大きな力をもっているかもしれません。でもそういった人々は多くの場合、起こさなければいけない変化に対して盲目になります。ですから、ヒエラルキーの下位にいる人たちが、勇気を出して、自分たちがもっている力を発揮して、愛をもって、壊れているところを指摘することが必要です。あるいは、組織の中心にいる人が、個人を傷つけている壊れたシステムを見て、その個人のためにプロセスやポリシーをどう変えられるか、勇気をもって発言することも必要でしょう。倫理的規範がある程度確立されている欧米ではこのような変化を起こすことは容易です。逆に倫理的規範が大きく異なる他の地域では、変革を起こすのは少し難しくなりますしコストもよりかかるでしょう。

BJO:先ほどのお話の中で、従業員の労働と休暇のバランスを取るためにシフト調整を提唱された方の例がありましたね。しかし、それはうまくいきませんでした。あなたがおっしゃったシナリオで、組織の現場レベルで必要な変化を察知し、そのような変化を提唱して実現できた人の例を教えてください。

MW: 私の心に強く残っている例があります。ティムの「忠実な存在感」という言葉を借りれば、その人は忠実であり続けました。でも彼がいる間に一件落着したわけではありません。彼が去った後も物語は続き、単にそのきっかけを作ったに過ぎない存在でした。上場しているヘルスケア企業で中間管理職についていましたが、その企業は収益性や株主の期待に応えるために必要な柔軟性はあまりなく、非上場企業には存在しないような制約がありました。ある時、彼は最低賃金レベルの労働者の間で、病欠ではない予期せぬ欠勤が発生することに気づきました。それは高学歴やもっと高収入の社員よりもずっと長期の欠勤でした。

これを彼は、車のバッテリーが壊れたケースで説明してくれました。もし私なら車のバッテリーが壊れても大した問題ではないだろう。3時間後に修理してもらい、車で通勤することもできるし、Uberで移動することもできる。低賃金労働者の場合、車のバッテリーが壊れても、新しいバッテリーを手に入れるだけのお金はないし、ましてやレッカー車を呼んだり、Uberにお金を払ったりすることもできない。だから消費者金融で25%の金利のローンで借金し、バッテリーを買いに行くといった方法を考えたりしなければならないと。

こういう場合、問題解決に2日半から3日かかります。私の場合は3時間で終わる作業です。可処分所得がそれなりにある人なら簡単に解決できることが、最低賃金労働者には極めて難しいという構造的なことを彼は何度も目の当たりにしたんです。そこでこのような事態に対処するための従業員緊急基金を提案しました。そしてそれを上層部に提案したところ、1週間後に電話がかかってきて、「うちの最低賃金労働者がワーキングプアであることを人事部長に証明したのか」と言われたそうです。「さっき部長が来て、最低賃金の技術者がもっと教育を受けて組織で出世するために、看護師レベルの給与を支払うべきかどうかについて、これまでの見解を見事にひっくり返した」と。

この話が面白いのは、解決方法が単純明快ではなかったところです。つまり、中間管理職の彼はこう思ったわけです。「なるほど、最低賃金労働者には、私にはない制約があって欠勤してしまう。休みたいわけでないし、もっと言えば給料をもらえないのは困る。彼らが欠勤するとクリニックが回らないから欠勤して欲しくない。彼らの欠勤をほんの少しでも減らすことができたら、会社も労働者も、そして私も助かる。この壊れた状態を修復するにはどうしたらいいのだろう?」

彼がこういった破れを明らかにすると、変化をもたらす権限がある人がこう言いました。「あなたの提案する変化が起きるかはわからないけれど、私ができるとしたら…最低賃金労働者が車のバッテリーを買うお金すらないということは、自分の学位取得のために学費も捻出できないと言うことですよね。彼らに社内で出世して欲しいならその学費を援助する、こういう方法でなら力になれるかと」

中間管理職の彼の指摘によって、この企業の最低賃金労働者グループ全体に学費援助の恩恵がもたらされました。彼はのちに別の業界で働くようになりましたが、最近もらった連絡では、彼が最初に提案した緊急資金も実現に向けて取り組まれているとのことでした。 

彼は忠実であり続けました。ある問題に目を向け、「なぜその問題が存在するのか? この問題で誰が傷ついているのか? それを変えるために何ができるのか?」と考え、それを提示したのです。

BJO: 今日は来てくださってありがとうございました。ともすれば誤解されやすいコメントに耳を傾けてくださって感謝します。

MW: こちらこそありがとう、ブランドン。このような仕事をさせていただいて身が引き締まる思いです。聞いてくださっている皆さん、何か異論があれば、ぜひお聞かせください。この対話に参加でき光栄です。キリストが墓からよみがえったという事実、それが私たちの9時から5時までの毎日に何を意味するのか。これを理解することで、世界中のすべての人が恩恵を受けることができると私は思っています。

(原典:https://redeemercitytocity.com/articles-stories/a-holistic-understanding-of-creative-goodness-in-the-workplace)

著者:ミッシー・ウォレス

City to Cityのグローバル戦略サービス担当ディレクター。それ以前は、Nashville Institute for Faith and Work (NIFW)の創設者兼エグゼクティブ・ディレクターを務めた。ヴァンダービルト大学で経済学の学士号を、ノースウェスタン大学JLケロッグ経営大学院でMBAを取得。