「星の子」

CTCJブックレビューシリーズ第三弾は、信仰をもつ親に育てられる子供の視点について考えてみました。


「星の子」今村夏子 朝日新聞出版 2017


大切な人が信じていることを、わたしは理解できるだろうか。一緒に信じることができるだろうか…。病弱なちひろを救うため両親はあらゆる治療を試みる。やがて両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき…。第39回野間文芸新人賞受賞作。(google booksより)


ー今回の本を選んだきっかけ

A:世武裕子さんという映画音楽家のファンでフォローしていたら、この映画を手がけているということで、公開前に小説を先に読んでみました。そうしたらけっこう小説だけでインパクトがあって。ちょうど子供たちが進学のために家を出たタイミングで、自分の子育てについてふり返っていた時期だったからなおさらそうだったのかも。同じようなライフステージにある詩子さんと感想を分かち合いたいなと思って勧めました。

U:気にはなっていたけど、ちょっと避けてたとこもあった本で、でも麻子さんに勧められて読みました。

A:避けていた?

U:そう、私自身、両親がクリスチャンの家庭で育ったから、なんか自分の育ちを客観的な視点で書かれたものを読むのはちょっと怖いなと。実際、半分くらいまで読んだとこで、宗教信じるってやばいやん、ってクリスチャンでいる自分がちょっと怖くなったくらい。

A:なるほど。私は読みながら信仰者としての自分の環境と似ている部分、そうでない部分を仕分けていたんだけれど、クリスチャンとしての生活はどうしても作中の宗教的コミュニティーに似ている部分があるわけで、そこはとてもドキッとさせられました。教会ってもしかして怪しいところ? みたいな。

ー読後感は?

A:著者今村夏子さんの芥川賞受賞作「むらさきのスカートの女」でもわかるように、なんだか世界観が不思議でここではないどこかの話みたいな印象。一方でごく普通の人たちの日常がリアルに表現されてて。読みながら共感したり、俯瞰してみたり。読み終わって極端に励まされも打ちひしがれもしない、かと言って時間の無駄だったかというとそうでもない。いろんなことを考えさせられる一方で、現実をありのまま受け入れられるような清涼感も感じました。

U:読後感は、すごく複雑でした。お話の中には、この家族がのめり込んだ宗教に同じようにのめり込んだ人たち、救い出そうとした人たち、傷ついた人たちがそれぞれ登場していて、それでも、主人公のちひろは幸せだという終わり方のようで。幸せということが基準となって考えるのであれば、必ずしも新興宗教によって不幸せになるわけではない、という場合の人もいるし、本当に人生無茶苦茶にされたと思う人も出てくる。結局どこか、「幸せ」とか「愛されている」とか「安心」とかそういう普遍的なものを人は求めているのだろうなとも思って。

あと、キリスト教の信仰をもってクリスチャンとして生きている私が第三者にはどのように映るかと言う事は、時々考える事だけど、この人たちと同じように映ってるのかな、と、少しゾッとしてしまっている自分もいました。

A:そういうこと、私もよく考えるけど、第三者から見たら私たちも怪しいよね。

U:そう。この作品の中で使われている教会っていう言葉とか、イベントにクラスメートを誘うとか、自分たちの日常生活に重なる部分があるものね。私が読んだのは、文庫版で、物語が終わったら小川洋子さんと今村夏子さんの対談が載ってて。宗教的なことを書こうと思っていたんですか?って言う小川さんの質問に、宗教をテーマにしようとは最初は思っていませんでしたって答えてて。頭にペットボトルの水を掛け合う高齢の男女のペアを目撃して、それがちょっと不気味に思えて、それをアルバイト先の人に言ったら「えっ?カッパじゃない?」って言われた、そのことを物語にできないかと考えていたら、何かの儀式みたいだなと思えてきてそこから宗教につなげたと。カルト宗教とか貧困家庭とかそう言うことを主題として読むこともできるけど、作者の実生活で出くわしたワンシーンを物語にしたと聞いて、なんかホッとしました。だけど、なんの安堵だろう、笑。 

A:誰もが何かしらを信じているんだなという安堵?

U:そうそう、日本ではカルト(新興)宗教とその他の宗教との区別が曖昧で、信仰の自由があるからということで、怪しい新興宗教さえ受け入れてしまいがち。でも、宗教に限らず、誰もが何かしらに対する信仰はもっているんだ、という安堵だと思う。



ー「宗教」と「福音」の違いについてどう思いますか?

A:「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:19、20)とあるように、本来、教会って教会堂という建物ではないんだよね。むしろ人の集まりなんだけど、人数が増えて大きな組織になっていくと「宗教」に入るとか辞めるとかってイメージになっちゃう。作中でも、よくちひろが宗教的コミュニティーへの関わりについて周りから自分の意思なのかどうか聞かれて、彼女自身は明確な主張や立場があるわけでなく、そういうのがきっかけで自分は何を信じてるんだろうって考え始める。

U:何か悪いことが起こって、とか、悪いことが起こらないように、人が人生で直面する困難に対応するために存在しているのが「宗教」。逆に良いことや思いが動機になって、よく生きられるため、償うため、誰かのため、そのような良い想いのためにも「宗教」がある

A:うんうん。一方で、「福音」は、キリストという神ご自身が犠牲になり、罪人の私に一方的な救いが与えられたという良い知らせであって、それ自体が何かを強いるものでも管理するものでもない。応答の仕方は千差万別で、信仰者のライフステージや環境によっても姿や表現が変わってくるものなんじゃないかと。

U:「宗教」と比べて「福音」は、根本的に、人から目線ではなく、神様が人を救いに来てくれるっていうどこまでも神目線というところを追求するしかないイメージだよね。これがどうかとか、人がどうかとかを信じるというより、「神を信じる」、そこから始まる。だから人は神のストーリーの中に生きている、その辺が「宗教」とは違うところかな。




ー教会開拓者あるいは信仰者として、本著が投げかけている問いがあるとしたら、何だと思いますか?

U:自分は相手に何を信じてもらおうと思っているか? イエス・キリストの福音を伝えてるか、それともこのお話の中の水とかメガネとかのように、福音からくる祝福とか、神ご自身ではなく、神が与えるものだけを差し出そうとしてないだろうか? という問いかな。


A:一番考えさせられたのは、「あなたの信仰は子供の信仰なのか?」という問い。私自身は仏壇や神棚に拝むことが当たり前の家庭で、お盆や法事といった行事がとにかく面倒だった。家族が喜んでやっているというよりは義務的、習慣的、文字通り宗教的に見えたからかな。

でも本作を読んで、仮に我が家の子供たちにとって教会の礼拝や行事、家庭での私たちの在り方にもそういう部分があったのかなと考えたらちょっと愕然としちゃって…もちろんいい思い出もあるだろうけど、ちひろのように親を愛し受け入れつつも、周囲の価値観との違いに気づいて混乱したり葛藤するのは子供にとってすごく個人的な経験だよね。ちひろの両親のようにどこか子供を手放せない脆さを私自身がもっていないか、読後しばらく思い巡らしました。

U:私の実家はごく普通のサラリーマン家庭だったけど、保育の仕事をしていた母が自宅を開放して土曜学校っていうのをやってたのね。近所の子供たちを集めて教会学校みたいなことをするの。自分自身が多感な時期は、それが恥ずかしいなって思ったこともあったけど、親のそういう姿からなんらかのいい影響をもらっていると思う。なんていうか、揺るがない何かをもっているんだなという印象だったから。



ー登場人物で一番共感できたのは誰?

U:ちひろ、私の両親もキリスト教の信仰をもっていて私を育て、宗教二世というカテゴリーにおいては同じだから。

A:ちひろの姉のまーちゃん。あとツダさん。懐疑的で対決を厭わないところ。

ー登場人物で一番共感できなかったのは?

U:ちひろ、自分でこれから正しいのか、というところを考えることなく、両親がいる世界が1番の安心と捉えているから。

A:ちひろ。物心ついた時から当たり前だった親からの信仰を素直に受け入れるちひろのプロセスが自分にはなかったから。2人とも共感できなかったのはちひろ、なんだね!

U:そう、家族の温もりに生きていこうとするちひろに共感はできなかったかなあ。やっぱり自分が育ってきた価値観を客観視するとか、クエスチョンをもつとかが見られなかったから、私としては「ちひろ、大丈夫?」って心配になっちゃった。

A:日本では今、宗教2世や親の信仰による虐待が特にクローズアップされてるけど、一部のカルトの問題とだけ捉えるのでなく、福音に生きるって実際はどんな姿なのか、それを一番身近に見るのは家族。それを開拓者は心に留めておく必要があるかなと思う。

例えば、私たちが信仰という名のもとに家族の人権を侵害していないかどうか自己チェックするとか。でもどんな職業でも、子供を偶像にも犠牲にもしないで仕事と両立させるって難しいんだろうなあ。仕事と家庭、信仰と家庭を両立できないと悩む、そんな私たちだからこそ福音が必要なんだよね。

U:一周回って、やっぱりそこに戻ってきたね!



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