もつれた罠:アイデンティティから仕事を切り離す

最近ある人からこんなことを聞かれました。あなたは日常の中で、どんなことをどんなふうに祝うかと。私は一日の終わりに振り返り、祝うべき具体的な事柄を書き出すという習慣をもっていると答え、そんな自分に満足を覚えながら前の晩のリストを思い出しました。声に出して読み上げてみると、どれも仕事上の目標を達成した事ばかりでした。私は愛する家族や長年親しくしている友人に囲まれている。それなのになぜ仕事以外のことを祝っていないのだろう? なぜ祝うのが仕事のことばかりになっているのだろう? ふとそう思わされました。

もしかしたら結婚や子育てだと、私たちの有能さより弱さが露呈されることが多いからかもしれません。私たち夫は、キリストが教会を愛したように妻を愛することについては常に成長の余地があります(エペソ5章25節)。また、自分の子どもをあるべき姿に導こうとしているのに、どこか遅れをとっているような気がするのも確かです(箴言22:6)。だとしたら、仕事で目標を達成した事柄を祝うほうがはるかに自尊心を高められるでしょう。何かのベテランとして認められている場合や、人生がうまくいっている場合は特にそうです。

仕事を人生の重要な要素とする、それは今に始まったことではありません。英国で最も一般的に見られる「スミス」という姓は、鍛冶屋、銀細工師、鍵屋、銃製造者などがその由来です。日本では「佐藤」が有名ですが、由来の一つは日本の律令制下に始まった左衛門尉という重要な職名です。かつて仕事がその人の重要な特徴であり、文字通りアイデンティティだった時代があったことがわかります。 そして社会は今もなお、仕事をその人のアイデンティティとすることをよしとします。新卒社員は仕事を完璧にこなそうと意気込んで社会に出ますが、なかなかそうできず挫折を味わいます。主夫として子育てする父親は会社で働く男性よりも社会への貢献度は低いと思われがちです。しかしこういった仕事の達成に伴う高揚感にはいつも代償が伴います。

「私たちは、自分が価値のある人間だという感覚を、神との関係を通してではなく、仕事を通して見出す。言い換えれば、私たちは無意識のうちに、世俗的な仕事や役割を通して自分を正当化しようとしている。 」 (福音を中心とした仕事、ティム・チェスター、p.53)

仕事とアイデンティティが絡み合うほど、仕事とプライベートの境界は曖昧になリます。これは特に自分自身を仕事で表現する人たちによく見られる現象です。経営者、弁護士、起業家、教会の指導者、学者などは、自分で自由にスケジュールを組み、やろうと思えば仕事で人生を埋め尽くすことができます。好きな仕事をすることは悪いことではありませんし、生活のために働くことも大切です。しかし、もし仕事の達成だけを祝うように偏っているなら、後々代償を払うことになるでしょう。私の場合は、仕事が満足感を与え、自尊心を高め、自信の源になっていることがわかりました。だからもし仕事で行き詰まることがあったら、私にとってその先に待っているのは虚しさです。

「もし私たちが仕事を救いと考え、アイデンティティや充足感を得るための手段と考えるなら、仕事での失敗は最悪の経験になる。」  (福音を中心とした仕事、ティム・チェスター、p.54)

良いものにエネルギーを注ぎすぎて、それが偶像になってしまうことはよくあることですし、偶像は決して永続的な満足を与えません。永続的な充足感とは、神だけが与えることができるものです。だとしたら私たちはどうしたらいいのでしょう? 次の言葉が私たちの心を枯れた川の水ではなく、生ける水へと導いてくれます。

「キリストにアイデンティティを見出すことで、私たちは不安から解放される。私たちは神の子であり、それは仕事で良い一日を過ごしたとしても、ミスや失敗に満ちた一日を過ごしたとしても変わることはない。」 (福音を中心とした仕事、ティム・チェスター、p.55)

このことを念頭に置いて、絡み合っていた仕事とアイデンティティを解きほぐし、キリストにある自分を再構築するためのRで始まる3つのポイントをご紹介します。

Repent - 悔い改める

偶像礼拝は心の中で始まり、神よりも大切なもので満足することが含まれます。すべての罪と同じように、悔い改めが必要です。しかし、強い労働倫理が染み付いていたり、周りの人が長時間労働を献身的な努力だとみなしていると、悔い改めるのは難しいかもしれません。

Remember - 思い出す

仕事について聖書の視点を祝い喜ぶことが大切です。それは創造の使命(創世記1章28節)とエデンの園で神がアダムに仕事を与えたこと(創世記2章15節)を理解するためです。また、ヨセフ、ルツ、ダニエルの人生では、偶像化されなかった仕事観を理解できるでしょう。自分自身を救うための土台としてではなく、神の栄光が表され、他者が仕えられるための手段として、私たちは仕事を肯定することができるのです。

Rejoice - 喜ぶ

職場や仕事における私たちの習熟度、あるいは仕事そのものも、ある意味一時的なものです。ですから私たちが学ぶべきは、揺るぎないものを祝うことです。選ばれ、赦され、養子とされた特権は変わりません。キリスト教信仰の基礎となるこれらの要素は、私たちの喜びの理由です。神は私たちを愛しこの地上にまで下り、私たちを自分自身という暗闇から救ってくださいました(詩篇71篇23節)。神の栄光を表すために創造された私たちにとって、神がなさったこと、今しておられること、そして将来なさると約束されていることを祝う以上に良いことが他にあるでしょうか? 

仕事や家族、友人関係を祝うだけでは、自尊心を常に高く保つことはできません。祝うとは、私たちが持っているものを喜ぶことだけではありません。大切にされ、話を聞いてもらえる神の子としての自分を楽しむ間(ま)が必要なのです。これが無いのなら、お祝いは十分ではありません。むしろこれがあれば、仕事で色々達成できた一日や、失敗や間違いのない絶好調の時期にしか祝えない、ということはなくなるのです。


著者:デイミアン・グレートリー

Damian Grateley→プロフィール



グレイトリー デイミアン

グレース教会開拓ネットワーク東京のディレクター。妻の詩子との間に3人の子どもがいる。ツイッターのフォローはこちら